鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉検定 鎌倉の紅葉



武士二代執権北条義時

編集:yoritomo-japan.com








北条義時
北条義時
(「承久記絵巻」)


 鎌倉幕府二代執権北条義時(ほうじょうよしとき)は、1163年(長寛元年)、伊豆国の豪族北条時政の次男として誕生。

 母は、伊東祐親の娘とも言われるが定かではない。

 姉の北条政子蛭ヶ小島に流されていた源頼朝と結婚したことで、頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府の創設に尽力。

 頼朝亡き後は、有力御家人を滅ぼして政所別当・侍所別当を兼務。

 源実朝が暗殺された後、朝廷との対立が激化し、後鳥羽上皇が義時追討の挙兵をすると、これを打ち破り、幕府主導の政治体制を確立した(承久の乱)。

 後年、室町幕府を開いた足利尊氏が制定した「建武式目」の冒頭には、 「なかんづく鎌倉郡は、文治に右幕下はじめて武館を構え、承久に義時朝臣天下を併呑す」 と記されている。 



リンクボタン鎌倉北条九代

リンクボタン武内宿禰の生まれ変わり?〜北条義時の出生伝説〜

リンクボタン江間四郎・江間小四郎と呼ばれた北条義時

リンクボタン北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘?
〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜









 1177年(治承元年)頃

 姉の北条政子源頼朝と結婚。


蛭ヶ小島
桜頼朝と政子の像
(伊豆の国市・蛭ヶ小島)





〜1180年(治承4年)源頼朝挙兵〜

 8月17日

 頼朝が崇敬していた伊豆国一ノ宮の三嶋大社の祭礼の日に源氏再興の挙兵

 父時政とともに従い、伊豆国目代の山木兼隆を討ち、20日には相模国へ進軍。


三嶋大社
リンクボタン三嶋大社
(三島市)



 8月24日

 石橋山の戦いで大敗、兄の宗時が討死。


石橋山古戦場
桜石橋山古戦場
(小田原市)
北条宗時の墓
リンクボタン北条宗時の墓
(函南町)


源頼朝挙兵


リンクボタン北条時政の嫡男は誰だったのか?〜石橋山の戦いで討死した北条宗時は?〜



 8月29日

 石橋山の大敗後、頼朝は一時箱根権現に身を寄せるが、8月28日真鶴から安房へと船出。

 その前日、時政・義時父子も安房へと船出し、8月29日、平北群猟島で頼朝を出迎える。


箱根神社
リンクボタン箱根神社
(箱根町)


真鶴・岩海岸
リンクボタン源頼朝船出の浜
(真鶴町)
源頼朝上陸地の碑
リンクボタン源頼朝上陸地
(鋸南町)



 9月8日

 時政・義時父子が甲斐国へ。

 甲斐国の源氏を引き連れて信濃国へ赴き、平家軍を攻めるため。 


リンクボタン頼朝の挙兵と甲斐源氏

リンクボタン北条時政の不思議な行動〜石橋山の戦い後、時政は逃亡した?〜



 10月7日

 頼朝が鎌倉入りを果たす(10月6日とも)。

 伊豆山権現の覚淵のはからいで秋戸郷に隠れ潜んでいた政子も11日に鎌倉入りしている。 


伊豆山神社
リンクボタン伊豆山神社
(熱海市)


源頼朝鎌倉入り



 10月13日

 甲斐源氏と時政・義時父子が駿河国へ出発。



 10月20日

 富士川の戦い

 頼朝軍が平家軍を敗走させる。


平家越の碑(富士市)
リンクボタン平家越の碑
(富士市)





〜頼朝を鎌倉の主に推戴〜

 1180年(治承4年)12月12日、源頼朝は新亭に入御。

 時政・義時など御家人311人が御所に出仕し、頼朝を鎌倉の主に推戴。

 鎌倉には頼朝の御所が完成しただけでなく、御家人の宿館も構えられ、武家の都が誕生した。 


リンクボタン新亭完成・鎌倉殿と武家の都の誕生

リンクボタン東国の主君「鎌倉殿」









 1181年(治承5年)4月7日

 北条義時・下河辺行平結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝・葛西清重三浦義連・千葉胤正・八田知重の11名が頼朝の寝所警護の役に。



 1182年(寿永元年)11月

 寿永元年(1182年)10月、頼朝の浮気が発覚。
 政子牧宗親に命じて頼朝の愛妾・亀の前が匿われていた伏見広綱邸を破壊。
 怒った頼朝は宗親を呼び出して宗親の髻を切ってしまう。
 宗親は時政の後妻・牧の方の父(兄とも)。
 舅への仕打ちに怒った時政は、一族を率いて伊豆に引き上げてしまった。
 ただ、義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛されたのだという。 


リンクボタン浮気発覚・政子激怒

リンクボタン源頼朝に褒められた義時



 1183年(寿永2年)

 長男泰時が誕生。





〜泰時の兄安千代丸〜

 義時の長男は泰時とされるが、伝説によると泰時には兄がいたのだという・・・


〜八重姫が産んだ子〜

 伝説上の泰時の兄も泰時も、頼朝の最初の妻八重姫が産んだ可能性が・・・


リンクボタン北条義時の嫡子安千代丸と大蛇の伝説
(北條寺創建伝説)





〜源平合戦〜

 1184年(寿永3年)1月20日

 源範頼源義経木曽義仲を滅ぼす。


宇治川の戦い



 1184年(寿永3年)2月7日

 一ノ谷に集結していた平家軍を源範頼源義経が攻め、平家軍は敗走(一ノ谷の戦い)。


一ノ谷の戦い


木曽義仲追討・一ノ谷の戦いに北条時政・義時父子が加わっているという記録は見当たらない。



 1185年(寿永3年)2月19日

 一ノ谷の戦い後、讃岐国の屋島を本拠としていた平家軍を源義経が奇襲(屋島の戦い)。

 義時は源範頼に従軍し、2月1日、葦屋浦の戦いで武功を立てている。


屋島の戦い



 1185年(寿永3年)3月11日

 西海(九州)において特に功があったとして、

 小山朝政・小山宗政・中原親能葛西清重加藤景廉工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景仁田忠常・比企朝宗・比企能員

 とともに頼朝から感状受けた。



 1185年(寿永3年)3月24日

 源義経率いる水軍と平知盛率いる水軍が、長門国赤間関壇ノ浦の海上で衝突し、平家が滅亡(壇ノ浦の戦い)。


壇ノ浦の戦い



 1189年(文治5年)7月

 奥州征伐に従軍。


奥州征伐

奥州平泉





 1190年(建久元年)

 源頼朝が上洛

 頼朝の右近衛大将拝賀の随兵として小山朝政和田義盛梶原景時土肥実平比企能員畠山重忠とともに供奉。

 義時は、この頃になると有力御家人の仲間入りを果たしていたと考えられている。



 1192年(建久3年)9月25日

 比企朝宗の娘・姫の前を正室にむかえる。



 1193年(建久4年)

 源頼朝が巻狩りを催す。
 3月から4月にかけては入間野・那須野。
 5月には富士裾野。


富士裾野の巻狩り


リンクボタン弓馬の達人だった?〜北条義時〜



 1193年(建久4年)5月28日

 富士裾野の巻狩り曽我兄弟工藤祐経を討つ。


富士裾野の巻狩り



 1193年(建久4年)

 次男朝時が誕生。

 母は正室の姫の前。 



 1194年(建久5年)2月2日

 長男泰時が元服。


リンクボタン小鹿を射止めた金剛(泰時)と矢口の祭り

リンクボタン北条泰時の元服式と正妻の矢部禅尼



 1195年(建久6年)

 源頼朝が東大寺大仏殿落慶供養のため上洛。

 義時も供奉。



 1195年(建久6年)7月4日

 稲毛重成の妻(義時の妹)が死去。

 7月10日、時政・義時父子は喪に服すため伊豆国へ下っている。



 1198年(建久9年)6月6日

 三男重時が誕生。

 母は正室の姫の前。 









〜頼朝死後に才能を発揮!〜

 1199年(建久10年)1月13日、源頼朝が死去。

 頼朝存命中は、表だった行動をみせなかった北条義時。

 頼朝の死後は、御家人間の権力争いが激化する中で、その才能が発揮されることとなる。





 1199年(正治元年)4月12日

 頼朝の家督を相続した源頼家の訴訟親裁を停止し、宿老13人による合議制によることを決定。

 これに対し頼家は、4月20日、五人の近習に特権を与えている。

 リンクボタン源頼家の近習5人


宿老13人の合議制



 1199年(正治元年)12月18日

 梶原景時が追放される。


梶原景時邸跡
リンクボタン梶原邸跡
(鎌倉)
梶原景時館址
リンクボタン梶原景時館址
(寒川町)



 1200年(正治2年)1月20日

 梶原景時が駿河国清見関で滅亡。


梶原景時の変

梶原景時・景季の最期


梶原山
リンクボタン梶原景時終焉の地
(静岡市:梶原山)



 1200年(正治2年)5月25日

 四男有時が誕生。

 母は側室の伊佐朝政の娘。 



 1201年(建仁元年)

 正月、京都で城長茂が源頼家追討の宣旨を求めて反乱を起こすが、吉野山で誅殺されている。

 4月には、越後国で長茂の甥資盛と妹の板額御前が反乱を起こすが、佐々木盛綱が鎮圧している(建仁の乱)。



 1203年(建仁3年)6月23日

 頼家への謀反を企てたとして武田信光に捕らえられた阿野全成が誅殺された。

 全成は、源頼朝の異母弟、源義経の同母兄。

 義時の妹阿波局を妻としていた。 


阿野全成の誅殺



 1203年(建仁3年)9月2日

 北条時政比企能員を暗殺。

 北条政子に命じられた義時が比企邸を攻め、一族を滅亡させた。

 9月7日、将軍頼家は出家。

 9月15日、実朝が征夷大将軍に(任命書は9月7日に発行)。

 9月29日、頼家修禅寺に幽閉。 


比企能員の暗殺・比企氏滅亡



 1204年(元久元年)3月6日

 相模守に任命され、従五位下を与えられる。



 1204年(元久元年)7月18日

 源頼家を暗殺。


源頼家の墓
リンクボタン源頼家の墓
(伊豆:修禅寺)





〜幕府の実権を握った北条氏〜

 比企氏を滅亡させた北条時政は、大江広元と並んで鎌倉幕府の政所の別当となり、将軍・実朝の補佐を務めることとなる。



〜正室姫の前と離婚〜

 比企氏滅亡後、義時は正室の姫の前と離婚。

 姫の前は、京都で源具親と再婚したものと考えられている。


姫の前





 1205年(元久2年)6月22日

 北条時政の謀略により、「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた畠山重忠と嫡男の重保が滅ぼされる。


畠山重忠の乱



 1205年(元久2年)6月22日

 五男政村が誕生。

 母は後妻の伊賀の方



 1205年(元久2年)6月23日

 三浦義村に命じて稲毛重成を討つ。

 重成が北条時政の命で畠山重忠を陥れたことが原因。



 1205年(元久2年)閏7月19日

 北条時政とその後妻牧の方による平賀朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚。

 時政は伊豆国に追放され、京都にいた平賀朝雅は、閏7月26日、追討軍によって討たれた(牧の方の陰謀)。

 時政は、1215年(建保3年)1月6日、伊豆国の北条の地で死去。

 墓所は願成就院


北条時政墓
リンクボタン北条時政墓
(伊豆の国市・願成就院)


牧氏の変〜牧の方の陰謀〜



 1205年(元久2年)閏7月20日

 時政伊豆国へ下向したことにより執権に就任。



 1206年(建永元年)11月18日

 源実朝の勘気を蒙った東重胤に助言。


リンクボタン源実朝の勘気を蒙った東重胤と北条義時の助言



 1207年(建永2年)12月2日

 この年の鶴岡八幡宮放生会での任務懈怠のため出仕を止められていた吾妻助光が、アオサギを射落とす妙技を見せて許される。


リンクボタン源実朝とアオサギを射落とした吾妻助光と北条義時 



 1208年(承元2年)

 六男実泰が誕生。

 母は後妻の伊賀の方。 



 1209年(承元3年)11月14日

 実朝に郎従を御家人に準ずる扱いとすることを拒否される。



 1212年(建暦2年)5月7日

 次男朝時が実朝の正妻坊門姫(西八条禅院)の官女に手を出したため義絶。 


リンクボタン女性問題で蟄居させられた北条義時の次男朝時



 1213年(建暦3年)5月3日

 侍所別当の和田義盛滅亡(和田合戦)。


泉親衡館跡
リンクボタン伝泉親衡館跡
(横浜市泉区)

 1213年(建暦3年)5月2日、和田義盛が義時討滅の挙兵をするが、そのきっかけとなったのが泉親衡の乱。

 横浜市泉区の泉中央公園一帯は、泉親衡の館跡と伝えられ、1212年(建暦2年)に北条義時を討つために築いたのだと伝えられる。


和田塚
リンクボタン和田塚

 由比ヶ浜にある和田塚は、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられている。


和田合戦





〜義時が政所と侍所の別当に。〜

 畠山重忠の乱後、父時政を追放した義時は、政所別当に就任。

 和田合戦後には侍所の別当も兼ねて、幕府で最も重要な職を独占した。



〜山内荘が北条氏のものに。〜

 和田合戦後、土肥実平の孫惟平が地頭職を務めていた山内荘が、北条義時に預けられた。

 以後、山内荘は北条得宗家の所領として管理され、五代執権北条時頼以降、建長寺・禅興寺(明月院)・浄智寺円覚寺東慶寺といった禅刹が建立されていく。


山内荘と北条氏





 1214年(建保2年)10月3日

 六男実泰が元服。

 元服時の名は実義で源実朝の一字からと考えらえる。



 1215年(建保3年)9月14日

 伊賀の方の父・伊賀朝光が死去。

 翌日、義時も参列し、藤原行政邸の背後の山に葬られた。



 1216年(建保4年)

 従四位下を与えられる。



 1217年(建保5年)1月

 右京大夫に補任され、12月には陸奥守を兼任する。 









〜源実朝暗殺事件〜

 1217年(建保5年)6月20日

 園城寺で修行していた源頼家の子公暁が鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮の別当に就任。


園城寺(三井寺)
リンクボタン園城寺
(滋賀県大津市)
鶴岡八幡宮
鎌倉観光鶴岡八幡宮



 1218年(建保6年)2月〜4月

 次期将軍に後鳥羽上皇の皇子を迎えるため北条政子が上洛。

 実朝の正妻坊門姫(西八条禅院)の甥にあたる頼仁親王が候補に・・・


リンクボタン北条政子の上洛と将軍継嗣問題



 1218年(建保6年)7月9日

 義時が戌神将のお告げを受けて大倉薬師堂建立に着手。

 12月2日には運慶による薬師如来が安置され開眼供養が行われている。


北条義時と戌神将の伝説



 1219年(建保7年)1月27日

 源実朝鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺される。

 義時の代わりに太刀持ちをしていた源仲章も殺害されている。


源実朝の暗殺

源実朝が暗殺された日


鶴岡八幡宮大石段
リンクボタン鶴岡八幡宮大石段と源実朝暗殺〜その時、北条義時は現場にいた!〜



 1219年(承久元年)2月13日

 政子後鳥羽上皇に六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)のどちらかを将軍として迎えられるよう上申。



 1219年(承久元年)2月22日

 駿河国で阿野全成の嫡子時元が挙兵するが、義時が派遣した軍に攻められ自刃。


阿野全成の墓
リンクボタン阿野全成と時元の墓
(沼津市・大泉寺)



 1219年(承久元年)3月9日

 後鳥羽上皇が義時に対して摂津国の長江庄と倉橋庄の地頭職を廃止するよう勅命を下す。



〜後鳥羽上皇との交渉決裂〜

 親王将軍の申し入れと地頭職の廃止の交渉経過は不明だが、いずれも決裂。

 『吾妻鏡』の1221年(承久3年)5月19日の記事によると、後鳥羽上皇は義時に対して二度にわたって地頭職廃止の宣旨を下したが、義時が幕府の根幹を揺るがすとして拒否したため、上皇の怒りは凄まじかったのだという。

 政子と義時は、親王将軍を諦めて摂家将軍を迎えることとする。


リンクボタン北条政子の上洛と将軍継嗣問題

リンクボタン後鳥羽上皇の地頭職改補の要求を拒絶した北条義時

リンクボタン仁科盛遠の所領を没収した北条義時



 1219年(承久元年)7月19日

 左大臣九条道家の子三寅(2歳:のちの四代将軍・藤原頼経)が鎌倉に下向。

 頼経は源頼朝の姉妹・坊門姫の曽孫。

 頼経の後見役となった政子は「尼将軍」と呼ばれるようになる。


東福寺
リンクボタン東福寺
(京都:九条家の菩提寺)



 1219年(承久元年)12月27日

 政子が実朝追福のため勝長寿院に五仏堂を建立。

 運慶による五大尊像が安置された。









〜承久の乱〜

 1221年(承久3年)5月15日

 後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発する。

 後妻伊賀の方の弟で京都守護を務めていた伊賀光季が討死。


リンクボタン北条義時追討の官宣旨案
(神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵))

リンクボタン北条義時追討の宣旨
(『承久記』(流布本))

リンクボタン北条義時追討の院宣
(『承久記』(慈光寺本))

リンクボタン伊賀光季の最期



名超寺
リンクボタン名超寺
(長浜市)

 名超寺は、義時追討の院宣を発する前年、後鳥羽上皇が義時追討のための祈祷を修したという寺。



高陽院跡
リンクボタン高陽院跡

 高陽院は、後鳥羽上皇の院御所。

 ここに兵が集められ、義時追討の院宣が発せられた。



城南宮
リンクボタン城南宮
(京都)

 城南宮は、平安京の南に鎮座する神社。

 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだという。



太刀 菊御作
リンクボタン太刀 菊御作
(たち きくごさく)

 「菊御作」は、後鳥羽上皇が北条義時追討の挙兵に際して士気を鼓舞するため、自らが鍛えたものと伝えられている。



 5月19日

 幕府では・・・

 政子が「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固める。



北条政子が御家人に説いた事
(『吾妻鏡』)
↓ ↓ ↓
北条政子の言葉


慈光寺本『承久記』だとこうなる!
↓ ↓ ↓
リンクボタン北条政子の演説



 5月22日

 嫡男の北条泰時を総大将とする幕府軍が京へ向けて進軍開始(19万騎)。 


リンクボタン北条泰時の出陣

リンクボタン義時が泰時に語った戦の心構え

リンクボタン北条義時追討の宣旨に対する返書

リンクボタン落雷で朝廷に弓引く恐怖を覚えた北条義時



 6月15日


 北条時房が瀬田を、北条泰時が宇治を攻めて京市中に入り、朝廷軍を鎮圧。 


リンクボタン瀬田の合戦〜宇都宮頼業の活躍〜

リンクボタン宇治川の戦い


承久の乱

北条政子の言葉


瀬田の唐橋
リンクボタン瀬田の唐橋
宇治橋
リンクボタン宇治橋

 瀬田橋宇治橋は京都防衛の要衝地。

 1184年(寿永3年)の源頼朝木曽義仲追討の際にも、源範頼が瀬田を、源義経が宇治を攻めている。


宇治川の戦い〜承久の乱〜





〜三上皇配流〜

 幕府軍が朝廷軍を破った承久の乱

 7月になると、首謀者の後鳥羽上皇と順徳上皇は、それぞれ隠岐島と佐渡へ流された。

 さらに後鳥羽上皇の皇子・六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)も連座して、それぞれ但馬国と備前国豊岡庄児島へ流されている。

 討幕計画に反対していた土御門上皇は処罰の対象にはならなかったが、父の後鳥羽上皇が流されたことから、自ら望んで土佐国に流されたのだという。



後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵
リンクボタン後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵
(京都大原)

 隠岐に流された後鳥羽上皇は、1239年(延応元年)2月22日崩御。

 遺骨は摂津国の水無瀬離宮に移された後、京都大原の勝林院に納骨された。

 その後、法華堂が建てられて遺骨が納められたのだという。


鶴岡八幡宮今宮
リンクボタン今宮
(鶴岡八幡宮)

 鶴岡八幡宮今宮には、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇が祀られている。





〜五人の公卿を処刑〜

 後鳥羽上皇の近臣で「合戦の張本」とされた葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能は、それぞれの地で処刑された。

 リンクボタン合戦張本の公卿


藍沢五卿神社
リンクボタン藍沢五卿神社
(御殿場市)

 藍沢五卿神社には、処刑された五人が祀られている。





〜六波羅探題〜

 承久の乱後、幕府は朝廷の動きを監視するため、京都に六波羅探題を設置。

 北条泰時北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留。

 六波羅は平清盛をはじめとする平家一門の邸宅があったところで、六波羅蜜寺の周辺。


六波羅蜜寺
リンクボタン六波羅蜜寺
六波羅探題府址碑
リンクボタン平氏六波羅第・
六波羅探題府跡碑


リンクボタン京都文化博物館特別展「よみがえる承久の乱」





〜富士浅間社の遷宮〜

 1223年(貞応2年)6月20日

 義時の負担で富士山本宮浅間大社の遷宮の儀が執り行われる。

 この年、義時は北口本宮富士浅間神社の東宮本殿を創建。 


富士山本宮浅間大社
リンクボタン富士山本宮
浅間大社

(富士宮市)
東宮本殿
リンクボタン北口本宮
富士浅間神社

(富士吉田市)





〜最期〜

 1224年(貞応3年)6月13日

 北条義時急死(62歳)。

 源頼朝の法華堂の東の山上に葬られたのだという。 


北条義時法華堂跡
リンクボタン北条義時法華堂跡


 義時の死後、三代執権には泰時が就任するが、義時の後妻の伊賀の方は、兄伊賀光宗と謀反を企てたとして伊豆国に追放されている(伊賀氏の変)。

 ただ、この事件は、北条政子のでっちあげだともされ、泰時は謀反を否定している。


北条義時夫妻の墓
桜北条義時と伊賀の方の墓
(伊豆の国市・北條寺)


リンクボタン北条義時の最期(吾妻鏡)

リンクボタン北条義時は毒殺されたのか?

リンクボタン北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村





鎌倉覚園寺
鎌倉観光覚園寺
(鎌倉)
目黒 大圓寺
リンクボタン大円寺
(東京都目黒区)

 覚園寺は、北条義時が建てた大倉薬師堂を前身とする寺。

 大円寺の本尊・清凉寺式釈迦如来は、北条義時の菩提を弔うために建てられた釈迦堂(鎌倉・廃寺)にあった像と伝わる。


北條寺
リンクボタン北條寺
(伊豆の国市)

 北條寺は北条義時創建と伝わる寺。

 裏山には義時と伊賀の方の墓が建てられている。


豆塚神社
リンクボタン豆塚神社
(伊豆の国市)
珍場神社
リンクボタン珍場神社
(伊豆の国市)

 豆塚神社は、北条義時が崇敬したという社。

 珍場神社には、嫡子安千代丸の霊が祀られている。


願成就院
リンクボタン願成就院
(伊豆の国市)

 願成就院は、1189年(文治5年)、北条時政源頼朝奥州討伐の戦勝を祈願して建立。

 北条三代(時政、義時、泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めた。

 本尊阿弥陀如来坐像・不動明王と二童子像(矜羯羅童子・制咤迦童子)・毘沙門天像は、時政の発願により造立された運慶の真作。


北条氏邸跡
リンクボタン北条時政邸跡
(伊豆の国市)
北条義時邸跡(江間公園)
リンクボタン北条義時邸跡
(伊豆の国市)





伊東市最誓寺
リンクボタン最誓寺
(伊東市)

 伊東市の最誓寺は、源頼朝伊東祐親の三女八重姫の間に生まれた千鶴丸の菩提を弔うために建てられたのだという。

 建立したのは、江間小四郎と呼ばれた北条義時と、頼朝と別れた後、義時の妻となったという八重姫なのだとか・・・

 2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、八重姫は義時の初恋の人として描かれるらしい。



江間小四郎と呼ばれた北条義時
江間小四郎義時

源頼朝と八重姫の恋
八重姫


2022年のNHK大河ドラマは・・・
北条義時!

鎌倉殿の13人

宿老13人の合議制

特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編







北条得宗家の所領だった北鎌倉
山内荘と北条氏

 北鎌倉には、建長寺明月院浄智寺円覚寺東慶寺といった北条氏ゆかりの禅寺が建ち並ぶ。


北条氏ゆかりの寺社・史跡
北条氏をめぐる鎌倉


源頼朝配流の地・北条氏発祥の地
(伊豆の国市)

北条の里〜頼朝・時政・政子をめぐる〜
(伊豆の国市)

 伊豆・箱根

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特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編


歴史めぐり源頼朝







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