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建長寺は、1253年(建長5年)、五代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて開いた日本で初めての「禅専門道場」。 臨済宗建長寺派大本山。 正式名称は「巨福山建長興国禅寺」。 鎌倉五山の第一位で鎌倉四大寺の一つ。 『吾妻鏡」によると・・・ 1251年(建長3年)11月8日に事始が行われ、2年後の1253年(建長5年)11月25日に落慶供養が行われている。 本尊は一丈六尺の地蔵菩薩像。 その他に千体の地蔵像が据え置かれたのだという。 落慶供養の日には、書写した大乗経の供養も行われ、 天皇と国家の繁栄、将軍宗尊親王と重臣の長寿・平穏を祈るとともに、 源氏三代将軍(頼朝・頼家・実朝)の将軍と北条政子の冥福を祈ったのだとか。 |
開山 | 蘭渓道隆 |
開基 | 北条時頼 |
本尊 | 地蔵菩薩 |
※ | 一般的に禅宗寺院の本尊は釈迦如来だが、建長寺の本尊は地蔵菩薩。 建長寺が建てられる前にあった心平寺の本尊が地蔵菩薩だったことによるらしい。 |
![]() ![]() (どちらも残っていない) ![]() (心平寺地蔵、済田地蔵、勝上けん地蔵) ![]() ![]() |
北条得宗家による専制体制を確立した北条時頼を年表形式で見る。 |
かつて、建長寺には49の塔頭があったといわれている。 塔頭とは、高僧の塔のあるところ。 |
仏殿は、2025年(令和7年)2月から2027年(令和9年)7月まで保存修理が行われています。 |
建長寺の仏殿・唐門・西来院の中門は、増上寺から移築されたもの。 |
額を知ると面白い! |
![]() (西外門) |
![]() ![]() (総門) |
![]() ![]() (山門) |
![]() ![]() (法堂) |
開山蘭渓道隆 |
開山の蘭渓道隆は、中国宋の禅僧。 宋で修行していた泉涌寺の月翁智鏡との出会いが縁で、1246年(寛元4年)に来日。 筑前博多の円覚寺で布教活動をした後、翌年、智鏡の招きで上洛し、泉涌寺の来迎院に滞在。 しかし、旧仏教で固められた京都では、道隆の活躍する場はなく、1248年(宝治2年)頃、智鏡の勧めで鎌倉へ下った。 寿福寺に仮寓した後、北条時頼の招きで常楽寺に移り、1253年(建長5年)に建長寺が創建されると開山に迎えられた。 伊豆の修禅寺・京都の建仁寺・甲斐の東光寺・鎌倉の禅興寺(明月院)にも住し、1278年(弘安元年)、建長寺で没した。 |
![]() (7月15日) |
![]() ![]() (7月23〜24日) |
宋の厳格な禅風をそのまま建長寺に持ち込んだ蘭渓道隆。 境内は塵一つなく掃き清められていたといわれている。 掃除の行き届いている様子を「建長寺の庭を竹箒で掃いたようだ」というが、この言葉に建長寺の修行の厳格さをうかがい知ることができる。 道隆の書いた指導書「法語規則」は国宝。 |
刑場の跡地に建てられた寺 |
建長寺は、地獄谷と呼ばれた処刑場跡に建てられた寺。 建長寺が建立されるまでは、その鎮魂のための心平寺があったのだという。 |
![]() (横浜三溪園) |
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『新編鎌倉志』によると・・・ 回春院の山の上には、源平合戦の葦屋浦の戦いで敗れた原田種直の子が作った地蔵尊が埋められ、原田地蔵と呼ばれていたのだとか・・・ |
「応灯関」 |
建長寺十三世の南浦紹明(大応国師)→大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)→妙心寺開山の関山慧玄へ続く法系は「応灯関」と呼ばれ、現在の日本臨済宗の源流とも言えるのだという。 |
〜けんちん汁〜 (建長寺発祥の精進料理) |
けんちん汁は、建長寺発祥といわれる精進料理。 |
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五山の制度は、禅寺の格式を表すもの。 室町幕府三代将軍足利義満の時代に、京都の南禅寺が五山之上に置かれ、鎌倉五山と京都五山が決められた。 建長寺は鎌倉五山の第一位。 |
二位![]() |
三位![]() |
四位![]() |
五位![]() |
かつて長谷寺は、建長寺の塔頭宝珠院の支配下にあったといわれ、観音ミュージアムに収蔵されている徳道上人坐像は禅文化展開の一側面を今に伝えるもの。 |
建長寺の裏山中腹にある鎮守半僧坊大権現をさらに上ると「勝上けん」の展望台に到達する。 ここからは、覚園寺や瑞泉寺などに通ずる天園ハイキングコース。 |
山ノ内道の散策 山内荘と北鎌倉の禅寺 禅〜自身で開く悟り:鎌倉新仏教〜 建長寺と心平寺 |
鎌倉市山ノ内8 0467(22)0981 JR北鎌倉駅より徒歩15分 |
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