鎌倉手帳(寺社散策)

源 頼 家

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源頼家像
源頼家
(京都:建仁寺蔵)


 源頼家(よりいえ)は、源頼朝北条政子の長男。

 1182年(寿永元年)8月12日に誕生。

 鶴岡八幡宮の参道若宮大路は、父頼朝が母政子の安産を祈願して造営させたもので、そのとき誕生したのが頼家。

 頼朝亡き後、二代将軍となるが、実権を握りたい北条氏と比企氏の争いに巻き込まれ、1203年(建仁3年)、伊豆修禅寺に幽閉されたのち、翌年、北条氏によって暗殺された。

 (参考:比企氏の乱 比企能員の暗殺・比企氏滅亡)。


源頼家墓
リンクボタン源頼家の墓
(修禅寺)
比企一族の墓
リンクボタン比企一族の墓
(妙本寺)

一幡の袖塚
リンクボタン一幡の袖塚
(嫡子の墓・妙本寺)
京都建仁寺
リンクボタン京都建仁寺
(頼家創建)





〜主な出来事〜

1193年(建久4年)

 富士裾野の巻狩りで鹿を射止めた。

 喜んだ父頼朝が母政子に報告するが、政子は「武士の子であるなら当たり前」と使者に伝えたという。

 この巻狩りでは、曾我兄弟の仇討ちが起こり、工藤祐経が殺害された。

 この事件が原因で叔父の源範頼が伊豆修禅寺に流され殺害されている(参考:源範頼の謀叛 太寧寺と源範頼)。


曾我兄弟の仇討ち・・・(okadoのブログ)

源頼朝の弟範頼(okadoのブログ)


1195年(建久6年)

 父頼朝に従い奈良東大寺大仏殿の落慶供養に参列。


1199年(正治元年)

 頼朝の跡を継いだ頼家は、慣習を無視した独裁が多かったことから、宿老13人による合議制が採用された。

 それにより、実質上、頼家の実権は奪われた。


1200年(正治2年)

 乳母夫の一人で頼りとしていた梶原景時が、御家人66名の弾劾に遭い鎌倉を追放される。

 (参考:梶原景時の変 梶原景時の追放


1203年(建仁3年)

 叔父阿野全成を謀叛の罪で処罰(参考:阿野全成の誅殺)。


1203年(建仁3年)

 乳母夫比企能員が北条時政に暗殺され、比企一族が滅ぼされた。

 頼家も伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺された。

 (参考:比企氏の乱 比企能員の暗殺・比企氏滅亡



〜頼家の子〜

一  幡

 比企氏の乱によって殺害された。

 (参考:比企能員の暗殺・比企氏滅亡)。


一幡の袖塚
リンクボタン一幡袖塚
(妙本寺)


公暁(善哉)

 叔父実朝の猶子となり、鶴岡八幡宮の別当となったが、実朝を暗殺した後、討たれた。

 (参考:源実朝の暗殺


栄実(千寿丸)

 泉親衡の謀叛の企てに利用され出家。

 その後、和田残党に担がれ六波羅を襲撃しようとしたが失敗して自刃した。
 
 (参考:和田合戦 北条義時の独裁と和田義盛


禅暁

 実朝暗殺事件後、仁和寺に預けられていたが、公暁に加担していたとして殺害された。


竹御所

 叔父実朝の猶子となり、四代将軍藤原(九条)頼経の妻となった。

 難産が原因で死去(参考:新釈迦堂跡)。


妙本寺新釈迦堂跡
リンクボタン新釈迦堂跡
(竹御所墓・妙本寺)



人穴富士講遺跡
リンクボタン人穴富士講遺跡
(世界文化遺産)

 富士の人穴遺跡には、源頼家が仁田忠常に探索させたという伝説が残されている。







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