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源頼朝の乳母比企尼の娘丹後局を妻とし、伊豆配流中の頼朝を援助した。 北条政子との間をとりもったのも盛長といわれている。 甘縄神明神社を建てた染屋時忠を先祖とするともいわれているが詳細は不明。 武蔵国足立郡を本拠とした足立遠元は、甥にあたるのだとも。 盛長は、石橋山の戦いでの敗北後、頼朝とともに安房(源頼朝上陸地)に渡り、千葉常胤を説得して味方につけた。 頼朝の信頼は厚く、頼朝は、しばしば盛長邸(甘縄)を訪れていたといわれている。 頼朝亡き後は、出家して蓮西と名乗り、「宿老十三人による合議制」の一人となり幕政に参画。 梶原景時の変においては、御家人66名の弾劾に名を連ねている。 |
1200年(正治2年)4月26日死去(享年66歳)。 伊豆修禅寺には、盛長の墓といわれる宝篋印塔がある。 |
厚木市飯山の金剛寺には、盛長の位牌が残されている。 |
源頼朝の子を身籠もったという安達盛長の妻丹後局の伝説が残された神社。 丹後局は、頼朝の乳母比企尼の娘。 |
安達盛長の長男。 母は比企尼の長女丹後内侍 源頼朝亡き後の1199年(正治元年)8月、頼朝の跡を継いだ頼家に謀反の疑いをかけられてしまうが、北条政子によって助けられた。 以後、北条氏と親密な関係を保ち、1203年(建仁3年)の比企能員の変では、比企氏と縁戚であったにもかかわらず連座を免れている。 比企滅亡後、修禅寺に幽閉された頼家は、母の政子と三代将軍となった弟の実朝に「比企を裏切った景盛の身柄を引き渡し処罰させてほしい」と訴えたようだが、許されることはなかった。 1205年(元久2年)の畠山重忠の乱では、真っ先に進み出て弓馬の友の重忠を喜ばせた。 1218年(建保6年)、秋田城介に任官。 以後、安達氏が秋田城介を世襲する。 1219年(建保7年)、実朝が暗殺された後に出家して高野山に入るが、その後も幕政に加わり、1221年(承久3年)の承久の乱では北条政子の言葉を代読した。 承久の乱後、北条泰時とともに栂尾高山寺の明恵に帰依している。 北条氏と姻戚関係を結ぶなど安達氏の繁栄に努め、五代執権北条時頼の時代には、子の義景らとともに三浦氏を滅ぼす宝治合戦のきっかけを作った。 |
高野山の金剛三昧院は、北条政子の発願で源頼朝と源実朝の供養のために建てられた寺院。 景盛は、政子の命で伽藍を整備している。 |
安達景盛の妾を奪った源頼家 北条泰時と栂尾高山寺の明恵 宝治合戦 |
景盛の娘で、北条時氏に嫁ぎ、四代執権北条経時や五代執権北条時頼を産んだ。 時頼に障子を切り貼りする姿を見せて倹約の心を教えたという。 |
代々執権に仕え、宝治合戦では父とともに活躍。 娘の堀内殿(東慶寺開山の覚山尼)が八代執権北条時宗に嫁いだことにより、安達氏は子の泰盛の時代に大きな権力を得た。 |
五代執権北条時頼に重用され、八代執権北条時宗の時代には、元寇の恩賞奉行などを勤める。 九代執権北条貞時の代になると幕府の実権を握るようになるが、平頼綱と対立し敗れ滅亡した(霜月騒動)。 |
安達盛長の安達亭がどこにあったのかは定かではないが、古くから甘縄神明神社の辺りだと伝えられてきた。 甘縄神明神社には、「北条時宗産湯の井」が残されている。 |
安達盛長邸 |
北条時宗産湯の井 |
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