鎌倉手帳(寺社散策)

承久の乱
後鳥羽上皇 対 北条義時

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 承久の乱は、後鳥羽上皇が皇権回復するため、鎌倉幕府執権の北条義時に対して挙兵し、鎮圧された兵乱。

 源頼朝が鎌倉幕府を創始して以降、東国を支配する幕府と西国を支配する朝廷の二頭政治が続いていた。

 頼朝は1185年((元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすと、平家の没官領の多くを手中にし、11月には源義経追捕という名目で全国の荘園に守護と地頭を設置。

 頼朝の武家政権は、御家人の「忠誠と奉公」、御家人に対する「所領安堵」と「新恩の支給」を基本としたが、後者は地頭職への補任という手段を通じて行われたため、守護と地頭の設置は武士の力を飛躍させる要因となった。

 地頭職への補任は、荘園の領主となることではなく、管理・支配の権限を与えることだったが、地頭の力が強くなると、領主から年貢を奪い、土地を奪い、農民を支配下におこうとする者も現れるようになる。

 その対策のため、領主は領地を分割して地頭に与えるようになるが、地頭が領主化したことにより、貴族や朝廷の収入が激減していた。

 そうした状況の中で、後鳥羽上皇と良好な関係にあった三代将軍源実朝が暗殺されると、それまでなんとか保たれてきた鎌倉幕府と朝廷との関係が一気に崩壊する。

 源頼朝の守護・地頭の設置は東国を中心としたもので、西国には支配が及んでいなかった。



〜将軍継嗣問題〜

 『愚管抄』によれば、

 1218年(建保6年)に上洛した北条政子は、子ができない将軍源実朝の跡継ぎについて、後鳥羽上皇の乳母藤原兼子に皇族将軍の斡旋を相談している。

 当時、兼子は、後鳥羽上皇の皇子冷泉宮頼仁親王の養育を任され、絶大な権力を持っていた。

 頼仁親王は実朝の妻坊門信子の甥。

 政子と兼子の間では、頼仁親王を次期将軍とする約束が交わされていたと考えられている。

 『吾妻鏡』によると、

 1219年(承久元年)1月27日、三代将軍源実朝が暗殺されると、2月13日、政子は六条宮と冷泉宮のどちらかを将軍として迎えられるよう上申するため、二階堂行光を上洛させた。

 閏2月4日、後鳥羽上皇は、どちらかの宮を鎌倉に下向させることを約束したようだが・・・

 3月9日、藤原忠綱が後鳥羽上皇の使いで鎌倉に下向し、北条義時に摂津国の長江庄と倉橋庄の地頭職を廃止するよう勅命を下す。

 これに対して政子は、3月15日、北条時房に千騎を与えて上洛させている。

 『吾妻鏡』は、4月〜6月の記事が欠落していることから、その後の交渉の詳細は不明だが・・・

 1221年(承久3年)5月19日の記事によると、後鳥羽上皇は義時に対して二度にわたって地頭職廃止の宣旨を下したが、義時が幕府の根幹を揺るがすとして拒否したため、上皇の怒りは凄まじかったのだという。

 両者の交渉決裂は承久の乱の一因ともいわれる。

 その後、政子と義時は、親王将軍を諦めて摂家将軍を迎えることとし、7月19日、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)が鎌倉殿として下向した。

長江庄と倉橋庄は後鳥羽上皇の妾・伊賀局(亀菊)に与えられていた荘園。


承久の乱





〜後鳥羽上皇の挙兵〜
(『吾妻鏡』)

 1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇は御所に軍隊を集め、15日には呼び出しに応じなかった京都守護の伊賀光季を誅殺し、北条義時追討の宣旨を発した。

 関東には5月19日に上皇の宣旨が到達し、三浦義村ら鎌倉の有力御家人にも上皇の使者が送られている。

 上皇方の武将の中には、三浦胤義(三浦義澄の末子・義村の弟)らも含まれ、胤義が義村に送った手紙には「勅命にしたがって義時を追討するように」と書かれていたという。

 義村は、胤義の手紙を義時に提出し、弟の反逆には同心しないことを伝えている。

 後鳥羽上皇挙兵の報に動揺する御家人に対して北条政子は、

 「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」

 と説いて御家人の結束を固めたのだという。

 誅殺された伊賀光季は、1219年(建保7年)2月より大江親広とともにと京都守護に任じられて上洛していた。
 大江親広は大江広元の子で、承久の乱では朝廷軍に与した。


北条政子の言葉



〜幕府軍上洛〜
(『吾妻鏡』)

 5月19日夕刻、北条義時邸には、北条時房・北条泰時大江広元三浦義村安達景盛らが参集。

 会議では、足柄峠と箱根山に関を築いて朝廷軍を待つべきとする案が出されたが・・・

 大江広元は、

 「関を築いて守るのは長期間を要し、敗北の原因にもなる。

 運を天にまかせて、早く軍隊を京都へ向けて送り出すべき」

 と主張し、

 義時から両案について問われた北条政子は、
 
 「上洛しなければ、朝廷軍を破ることはできない。

 安保実光をはじめとする武蔵国の軍勢を待って、速やかに上洛せよ」

 と命じたのだという。

 幕府軍は、5月22日から東海道・東山道・北陸道の三道に分けて総勢19万騎で京都に向けて進軍を開始。

 東海道の大将軍は、北条時房・北条泰時・北条時氏・足利義氏・三浦義村・千葉胤綱(従軍十万余騎)。

 東山道の大将軍は、武田信光小笠原長清・小山朝長・結城朝光(従軍十万余騎)。

 北陸道の大将軍は、北条朝時・結城朝広・佐々木信実(従軍十万余騎)。

上皇は朝敵となった義時に味方する者はほとんどいないと考えていたようである。

上皇に味方した三浦胤義なども「兄義村は必ず味方する」といっていたようで、上皇方はかなり楽観的に考えていた。

安保実光は武蔵七党の一つ丹党の武将で、宇治川の戦いで溺死している。

北陸道を進軍する佐々木信実(盛綱の子)は、5月29日、酒匂家賢安を追討。幕府軍が朝廷軍を破った最初となった。

 リンクボタン北条泰時の出陣



〜 合 戦 〜
(『吾妻鏡』)

 6月3日、幕府の大軍が押し寄せて来るという報を受けた朝廷は、北陸道と東山道の大井戸渡し、鵜沼渡し、池瀬、摩免戸、印食渡し、墨俣、市脇に兵を派遣。

 6月5日、東海道を進んでいた北条時房・北条泰時は、尾張国に到達すると軍隊を方々に分け、同日、東山道を進んでいた武田信光・武田信政・小笠原長清・小山朝長の軍が大井戸渡しを撃破。

 6月6日、北条時氏と北条有時の率いる軍が摩免戸を撃破。

 その他、朝廷軍が守る陣地は全て破られ、朝廷軍は総崩れとなった。

 6月9日、後鳥羽上皇は自ら比叡山に登り、僧兵らの協力を仰ぎ、

 6月12日には、三穂崎、瀬田、印食渡し、鵜飼瀬、宇治、真木島、淀の渡しに兵を派遣。

 6月13日、幕府軍は、北条時房が瀬田橋で朝廷軍と比叡山の僧兵と合戦。

 毛利季光三浦義村は淀・手上へ向かい、北条泰時は宇治の栗小山に布陣。

 宇治橋では足利義氏と三浦泰村が朝廷軍と合戦に及ぶが、不利な橋の上での戦いで多くの死傷者を出してしまったため、北条泰時が宇治橋まで赴き戦いを止めさせている。

 6月14日、前夜平等院で休息した北条泰時は、前日の雨で増水していた宇治川を強引に渡って朝廷軍を敗走させ、毛利季光三浦義村は淀の渡しを破って、深草で泰時と合流。

 北条時房は瀬田橋で朝廷軍を敗走させた。

 6月15日、幕府軍が京市中に入ると、小野盛綱・足利秀康が逃亡。

 三浦義村の弟・胤義は東寺の門中に籠って幕府軍と戦ったが、西山の木嶋で自刃した。

小野盛綱と足利(藤原)秀康は、京都守護の伊賀光季を誅殺した武将。

 リンクボタン三浦義村の弟・胤義


瀬田の唐橋
リンクボタン瀬田の唐橋
宇治橋
リンクボタン宇治橋

 瀬田橋宇治橋は京都防衛の要衝地。

 1184年(寿永3年)の源頼朝木曽義仲追討の際にも、源範頼が瀬田を、源義経が宇治を攻めてた。


平等院
リンクボタン平等院
東寺
リンクボタン東寺


宇治川の戦い〜承久の乱〜





〜 配 流 〜

 7月になると、首謀者の後鳥羽上皇と順徳上皇は、それぞれ隠岐島と佐渡へ流された。

 さらに後鳥羽上皇の皇子・六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)も連座して、それぞれ但馬国と備前国豊岡庄児島へ流されている。

 討幕計画に反対していた土御門上皇は処罰の対象にはならなかったが、父の後鳥羽上皇が流されたことから、自ら望んで土佐国に流されたのだという。


鶴岡八幡宮今宮
リンクボタン今宮
(鶴岡八幡宮)

鶴岡八幡宮の今宮には、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇が祀られている。



〜六波羅探題の設置〜

 承久の乱後、鎌倉幕府は、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領約3000余箇所は没収。

 その多くは、幕府の支配下になかった西国の荘園で、御家人に再分配されて地頭が設置された。

 また、朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。


六波羅蜜寺
リンクボタン六波羅蜜寺



北条政子の上洛と将軍継嗣問題(okadoのブログ)

源実朝の暗殺と倒幕を企てた後鳥羽上皇〜承久の乱〜(okadoのブログ)







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