奈良・京都

運慶 興福寺北円堂



京都:宇治橋
〜日本三古橋〜

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京都・宇治橋


 宇治橋(うじばし)が初めて架けられたのは、646年(大化2年)と伝えられ、日本最古の橋といわれている。

 「瀬田の唐橋」と「山崎橋」とともに日本三古橋の一つ。

 宇治橋架橋の由来が刻まれた橋寺放生院の「宇治橋断碑」(国重文)によると、僧道登(どうと・大和国元興寺の僧)が架設したのだという。

 現在の橋は、1996年(平成8年)3月に架け替えられたもの。

 長さは155.4m、幅25m。

 下を流れるのは宇治川。

 琵琶湖から流れ出た川は、瀬田川、宇治川、淀川と名を変えて大阪湾に注いでいる。

 日本三急流の一つ。


京都・宇治橋





紫式部像
リンクボタン紫式部像

 京都府宇治市は「宇治茶と源氏物語のまち」。

 紫式部『源氏物語』の作者。

 全編五十四帖のうち、最後の十帖は宇治川が舞台となっており「宇治十帖」と呼ばれている。

 宇治橋西詰には紫式部像が建立されている。



紫式部


宇治十帖〜紫式部『源氏物語』〜





京都・宇治橋三の間
三の間

 宇治橋の上流側にある張り出しは「三の間」と呼ばれ、橋の守り神である橋姫を祀った所(参考:橋姫神社)。

 宇治川の川波の音がはげしい夜は、橋の上流にある宇治神社の男神が橋姫のもとへ通うのだという。

 豊臣秀吉は、ここから茶の湯を汲ませたという。



橋姫神社
リンクボタン橋姫神社



宇治神社
リンクボタン宇治神社


宇治上神社
リンクボタン宇治上神社










〜宇治平等院の戦い〜

 1180年(治承4年)5月26日、以仁王の令旨を奉じ、平家打倒の挙兵をした源頼政は、以仁王とともに東大寺興福寺のある南都へと向う途中、平知盛らに追撃され、宇治橋の橋板を落とし、平等院に籠もって抵抗したが・・・

 「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」

 と辞世の一首を残し自刃したのだという。

 頼政が宇治で防戦している間、以仁王は南都へと向かったが、南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らの追討軍に追いつかれて討たれている。



宇治平等院
リンクボタン平等院


頼政終焉の地
宇治平等院:扇の芝
リンクボタン扇の芝
塔頭最勝院
源頼政墓:宇治平等院
リンクボタン源頼政墓



高倉神社
リンクボタン高倉神社
(木津川市)
以仁王の墓
リンクボタン以仁王の墓
(木津川市)

 高倉神社は、以仁王終焉の地にある以仁王を祀る社。

 高倉神社の隣接地が以仁王の陵墓




以仁王の令旨と源頼朝

平家打倒の命令書〜以仁王の令旨〜



浄妙山

 祇園祭の後祭で巡行する浄妙山の御神体は、以仁王のために奮戦した園城寺の僧兵・筒井浄妙と弟子の一来法師。





〜承久の乱〜

 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が起こした承久の乱では、6月13日に朝廷軍と幕府軍が宇治橋で対峙。

 幕府軍の大将軍北条泰時平等院で休息をとって、翌日、宇治川を渡河して朝廷軍を敗走させた。 



承久の乱

宇治川の戦い〜承久の乱〜





橋寺
リンクボタン橋寺放生院
(宇治橋の守り寺)
宇治十帖モニュメント
リンクボタン宇治十帖
モニュメント

(朝霧橋)


宇治川先陣の碑
リンクボタン宇治川先陣の碑
(塔の島)
京都宇治・十三重石塔
リンクボタン十三重石塔
(塔の島)





通圓茶屋
通圓茶屋

 宇治橋の東詰にある通圓茶屋は、1160年(永暦元年)の創業。

 源頼政の家臣・古川右内が隠居後、通圓を名乗って庵を結んだのが始まりだという。

 その子孫も通圓を名乗り、宇治橋の守護職(橋守)を務めた。

 現在の建物は1672年(寛文12年)の建築。

 初代通圓は、1180年(治承4年)の平等院の戦いで頼政とともに討死している。



〜平等院にある頼政と通圓の墓〜

源頼政墓:宇治平等院
リンクボタン源頼政墓
宇治平等院:太敬庵通圓の墓
リンクボタン初代通圓の墓









歴史めぐり源頼朝




京都・宇治橋
宇治橋

宇治橋は昔も今も宇治を象徴する橋。

JR、京阪宇治線「宇治駅」からすぐ



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