鎌倉手帳(寺社散策)

以仁王が発した令旨
〜平家打倒の命令書〜

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 『吾妻鏡』によれば・・・

 1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第三皇子以仁王は、源頼政のすすめによって平家打倒の令旨を発した。

 その内容は、壬申の乱における天武天皇の前例に倣い、王位の簒奪を謀る反逆者・平清盛とその一族を追討し、皇位に就くことを宣言するもの。

 ※『吾妻鏡』では、第二皇子となっている。  


源頼朝旗挙の碑
リンクボタン源頼朝旗挙げの碑
(三嶋大社)



〜以仁王の令旨〜
(『吾妻鏡』)

 下す

 東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等の所へ

 応えて早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討の事

 右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず

 最勝王(以仁王)の勅を奉りて称(い)う

 清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て凶徒を起す

 国家を亡し、百官万民を悩乱す

 五畿七道(全国)を虜掠し、皇院(後白河法皇)を幽閉し、公臣を流罪す

 命を断ち、身を流す

 淵に沈め、樓(牢)に込め、財を盗り、国を領す

 官を奪い職を授け、巧無きに賞を許し、罪あらずに過(とが)を配す

 あるいは諸寺の高僧を召し釣(こ)め、修学の僧徒を禁獄す

 あるいは叡岳(延暦寺)の絹米を給い下し、謀反の粮米を相具す

 百王の跡を断ち、一人の頭を切る

 帝皇に違逆し、仏法を破滅し、古代を絶つ者なり

 時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う

 よって吾一院の第二皇子と為て、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討す

 上宮太子(聖徳太子)の古跡を訪ね、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんや

 ただ人力の構へを憑(たの)むにあらず、ひとへに天道の扶(たす)けを仰ぐ所なり

 これによって、もし帝王三宝神明の冥感あらば、何ぞたちまち四岳合力の志なからんや

 然らば則ち、源家の人、藤氏の人、

 かねては三道諸国の間、勇士に堪えら者、同じく与力し追討令(せし)め、

 もし同心せずにおいては、清盛法師の従類になぞらい、死流追禁の罪過に行うべし、

 もし勝功あるにおいては、まず諸国の使節に預かり、

 御即位の後、必ず乞いに随(したが)い勧賞を賜わるべきなり

 諸国承知して宣に依てこれを行え

 治承四年四月九日

 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱


源仲綱は、以仁王に令旨発出をすすめた源頼政の嫡男。


石清水八幡宮
リンクボタン石清水八幡宮

 以仁王の令旨は、4月27日に伊豆国の北条館(北条時政邸)に到達。

 源頼朝は、源氏の氏神・石清水八幡宮を遙拝してから開いて読んだのだという。

 リンクボタン以仁王の令旨と源頼朝





〜『平家物語』に列挙された源氏〜

 『平家物語』によると・・・

 以仁王を御所に参った源頼政は、以仁王に平家を滅ぼして帝位につくことをすすめた上で、令旨を発すれば喜んで馳せ参じる源氏が多くいることを言上。

 全国にいる六孫王(源経基・清和源氏経基流の祖)の末裔で、多田満仲(源満仲)の子孫を挙げている。


【京都】
京都の出羽光基・出羽光長・出羽光重・出羽光能

【熊野】
源義盛(源行家・源為義の十男)

【摂津国】
多田朝実・能瀬高頼・太田頼基

【河内国】
源義基(源義家の六男)・源義兼

【大和国】
源有治・源清治・源成治・源義治

【近江国】
山本義経・柏木義兼・錦織義高

【美濃尾張】
山田重忠・浦野重直・泉重光・浦野重遠・葦敷重頼・葦敷重資・木田重長・木田重国・矢島重高・矢島重行

【甲斐国】
逸見義清・逸見清光・武田信義・加賀美遠光・小笠原長清・一条忠頼・板垣兼信・武田有義・武田信光・安田義定

【信濃国】
大内維義・岡田親義・平賀盛義・平賀義信・源義賢木曽義仲

【伊豆国】
源頼朝

【常陸国】
志田義教・佐竹正義・佐竹忠義・佐竹義宗・佐竹高義・佐竹義季

【陸奥国】
源義経


以仁王
以仁王

 後白河法皇の第三皇子。

 母の出自が高貴でなかったためか、幼年期の動向は、あまり知られていない。

 1179年(治承3年)、平清盛が後白河法皇を幽閉すると平家討伐の準備を始めたという。

 『平家物語』は、建春門院滋子の嫉みで三条高倉の御所で不遇の生活を送っていたと伝えている。







源頼朝挙兵

 以仁王の令旨を受けた源頼朝は、1180年(治承4年)8月17日に挙兵。

 石橋山で大敗したものの、安房(源頼朝上陸地)に渡って軍勢を整えると10月6日には相模国に入り、鎌倉を本拠と定めている。


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