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木曽義仲は信濃国の武将。 1154年(久寿元年)、武蔵国比企郡の大蔵館で誕生したと伝えられる。 河内源氏の源義賢の次男。 源頼朝・源義経とは従兄弟。 幼名は駒王丸。 誕生の翌年、父の義賢が源義平に討たれると、駒王丸は畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国の木曽谷へ逃れ、乳母夫の中原兼遠のもとで育てられた。 1166年(仁安元年)、13歳で元服し、木曽次郎源義仲と名乗る。 『平家物語』によると、中原兼遠とともに上洛し、石清水八幡宮を参拝して元服したのだという。 1180年(治承4年)4月、以仁王の平家打倒の令旨が発せられると、8月には頼朝が挙兵、義仲も9月に挙兵した。 |
1183年(寿永2年)5月11日、倶利伽羅峠の夜戦で平家軍を潰滅させて勢いに乗った義仲は、7月25日、平家一門を都落ちさせた。 7月28日に入京するが、次第に後白河法皇と対立するようになる。 後白河法皇に見放され、源頼朝の上洛を恐れる義仲は、11月19日、後白河法皇の法住寺殿を焼き討ち。 12月には頼朝追討の院宣を強要、翌年1月には征東大将軍に任命される。 これに対し鎌倉の頼朝は、弟の範頼と義経に義仲追討を命じ、1月20日、範頼が瀬田から、義経が宇治から京を攻撃したことで義仲は惨敗。 わずかな兵で京を脱出するが、範頼の大軍に攻められ、近江国粟津で討死した。 |
宇治川先陣の碑 (宇治市) |
瀬田の唐橋 (大津市) |
『吾妻鏡』によると粟津の戦いに敗れた義仲は、相模国の石田為久に討たれたのだという。 為久は「大一大万大吉」の旗印を使っていたのだという。 のちの関ヶ原の戦いで石田三成も使用している。 |
義仲の首は六条河原に晒された後、家臣の手で葬られたのだという。 |
巴塚 (義仲寺) |
巴地蔵堂 (義仲寺) |
義仲寺は、義仲の愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられる。 |
「太刀 銘有綱」は、巴御前が帯びていたと伝えられている太刀(個人蔵)。 |
今井兼平は、義仲の乳兄弟。 粟津の戦いで壮絶な最期を遂げた。 |
粟津の戦い:木曽義仲と今井兼高の最期 |
木曽塚 (鎌倉:常楽寺) |
清水八幡宮 (狭山市) |
義仲は、嫡男義高を鎌倉へ人質として預けていたが、頼朝は義仲を討つと義高も誅殺している。 鎌倉の常楽寺裏山にある木曽塚は木曽義高の墓と伝えられ、狭山市の清水八幡宮は木曽義高を祀っている。 |
木曽町の徳音寺には、義仲・母の小枝御前・巴御前・樋口兼光・今井兼平の墓が建てられている。 |
小田原の善栄寺は、巴御前が木曽義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建したと伝えられる。 |
横須賀市の正行院は、和田義盛が巴御前の菩提寺として創建したのだという。 |
滋賀県大津市馬場1-5-12 JR 「膳所駅」 から徒歩10分 京阪「京阪膳所駅」 から徒歩10分 |
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