中世歴史めぐり

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家康生誕地 東照宮

徳川家康



石田三成
〜徳川家康に挑んだ関ヶ原〜


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秀吉・三成出逢いの像
秀吉・三成出逢いの像
(長浜駅前)


 石田三成は、近江国坂田郡石田村の出身。

 豊臣秀吉が、まだ長浜城にいた頃のこと。

 観音寺で修行をしていた三成は、鷹狩の際に立ち寄った秀吉に・・・

 「最初は、ぬるいお茶を大きい茶碗いっぱいに、

 次は、少し熱くしたお茶を半分ほど、

 最後は、熱くした少しのお茶を小さな茶碗で」

 差し出した。

 三成の心配りに感心した秀吉は、三成を召抱えることとしたのだとか。



長浜城址
リンクボタン長浜城

 長浜城は、浅井長政を攻略した羽柴秀吉が、織田信長から長政の旧領の近江国長浜を拝領して築いた城。





〜三浦一族・石田為久の末裔?〜

 三成の先祖については諸説あるが・・・

 相模国大住郡石田郷の武将で三浦一族の石田為久の末裔ともいわれる。


大一大万大吉
リンクボタン大一大万大吉
(関ヶ原古戦場)

 石田為久は、1184年(寿永3年)、源範頼源義経に攻められて都を落ちた木曽義仲粟津の戦いで討ち取った。

 その時の旗印は「大一大万大吉」。





〜加藤清正・福島正則らと対立〜

 1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内では三成など行政を担当する文治派と加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が対立。

 1599年(慶長4年)閏3月、二派の調停にあたっていた前田利家が死去すると・・・

 武断派は三成の襲撃を計画。

 これを察知した三成は、伏見城の屋敷に逃げ込み立て籠もったのだという。

 伏見城は武断派に包囲されるが、徳川家康の仲裁により和睦。

 三成は佐和山城に隠居させられたが、翌年には家康に対して挙兵することとなる。



伏見城
リンクボタン伏見城

 伏見城は豊臣秀吉が築いた城。

 関ヶ原の前哨戦となる伏見城の戦いでは、鳥居元忠ら800人が討死している。



リンクボタン伏見城の戦い〜関ヶ原の戦いの前哨戦〜

リンクボタン鳥居元忠〜伏見城で討死にした三河武士の鑑〜

リンクボタン細川ガラシャの最期〜関ヶ原の戦い〜

リンクボタン鎌倉と徳川家康〜関ヶ原の戦いと星ノ井・鶴岡八幡宮・長谷寺〜





〜関ヶ原〜

 1600年(慶長5年)6月、家康が会津の上杉景勝を征伐するため出陣すると・・・

 7月17日、三成は家康に宣戦布告。

 そして、9月15日、三成率いる西軍と家康の東軍が関ヶ原で相まみえることになる。

 合戦は西軍優勢で進んだが、小早川秀秋らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。

 ただ、実際がどうだったのかは不明な点が多い。

 合戦後、伊吹山の山中に逃れた三成は、9月21日に捕縛された。

 9月22日、大津城の門前で生き曝しにされた後、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らとともに引き回されている。

 そして、10月10日、京都の六条河原で斬首された(享年41)。



伊吹山
伊吹山

 三成が逃れた伊吹山は滋賀県と滋賀県の境に位置する伊吹山地の主峰。

 日本武尊の出征伝説や紫式部の歌で知られる。



大津城跡
リンクボタン大津城

 大津城は京極高次が籠城して西軍15000を釘付けにした城。

 三成はこの城の門前で生き曝しにされた。



東福寺退耕庵
リンクボタン退耕庵

 東福寺の塔頭退耕庵は、安国寺恵瓊・石田三成・宇喜多秀家らが関ヶ原の戦いの謀議を行った寺。 



佐和山城址
リンクボタン佐和山城址
(彦根市)

 9月18日、三成の居城・佐和山城は落城。

 その後は、徳川四天王のひとり井伊直政が入城している。



大徳寺三玄院
リンクボタン大徳寺三玄院
(京都)

 処刑された三成は、大徳寺の塔頭三玄院に葬られた。

 葬ったのは、佐和山城にあった三成の母の菩提寺を任せられていた薫甫宗忠と沢庵宗彭だった。




関ヶ原の戦い










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