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紫式部 紫式部年表



京都:大徳寺

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大徳寺


 臨済宗大徳寺派の大本山。

 1315年(正和4)、宗峰妙超(大燈国師)が創建。

 山号は龍寶山。

 本尊は釈迦如来。

 1325年(正中2年)、花園天皇の祈願所とされ、1334年(建武元年)、後醍醐天皇からは、京都五山の上に位置づけるとする綸旨が発せられた(参考:鎌倉五山)。

 その後、足利氏の時代になると軽んぜられ、五山十刹からは離脱している。

 応仁の乱の戦火で荒廃したが一休宗純が復興し、桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営んだことにより、戦国武将による塔頭建立が相次いで興隆を極めた。 



〜開山:宗峰妙超〜

 大燈国師の名で知られる大徳寺開山の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は、初めは天台宗を学ぶが、のちに高峰顕日、南浦紹明に参禅。

 南浦紹明が鎌倉の建長寺に住持すると宗峰も鎌倉に入って修行した(参考:建長寺天源院)。

 その後は、京都で乞食行をし、非常に厳格な修行に励んだのだという。

  「坐禅せば四条五条の橋の上往き来の人を深山木に見て」

 (坐禅も練熟してくると、都会のごみごみとしたそうぞうしさの中でも、それに心を引きずられなくなる)

 南浦紹明(大応国師)→宗峰妙超(大燈国師)→妙心寺開山の関山慧玄へ続く法系は「応灯関」と呼ばれ、現在の日本臨済宗の源流とも言えるのだという。









一直線に並ぶ勅使門、三門、仏殿、法堂。


大徳寺勅使門
リンクボタン勅使門
大徳寺三門
リンクボタン三門(山門)


大徳寺仏殿
リンクボタン仏殿
大徳寺法堂
リンクボタン法堂





 大徳寺は京都でも有数の規模有する禅宗寺院。

 境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が建ち並ぶ。

 ただし、常時拝観のできる塔頭は、龍源院瑞峰院・大仙院・高桐院の4ヶ院。


大徳寺





大徳寺三玄院
リンクボタン三玄院
石田三成創建
大徳寺興臨院
リンクボタン興臨院
畠山義総創建


大徳寺瑞峯院
リンクボタン瑞峯院
大友宗麟創建
大徳寺黄梅院
リンクボタン黄梅院
豊臣秀吉創建


大徳寺龍源院
リンクボタン龍源院
畠山・大友の創建
大徳寺高桐院
リンクボタン高桐院
細川忠興の創建


大徳寺大光院
リンクボタン大光院
豊臣秀長菩提寺



〜紫式部ゆかりの塔頭〜

雲林院
リンクボタン雲林院
大徳寺真珠庵
リンクボタン真珠庵


 大徳寺の地は紫野と呼ばれ、桓武天皇が平安遷都を決めた地とされる船岡山の麓。

 紫野紫式部の生地ともいわれ、雲林院『源氏物語』〜賢木の巻〜に登場する。

 天台宗の官寺として栄えたが衰退し、鎌倉時代末には大徳寺の塔頭となった。

 真珠庵には「紫式部産湯の井」がある。










〜織田信長の葬儀〜

 1582年(天正10年)6月2日、本能寺に滞在中の織田信長が明智光秀の謀反によって自刃(本能寺の変)。

 それから100日後の10月10日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、大徳寺で信長の葬儀を執り行っている。

 喪主は信長の四男で秀吉の養子となっていた秀勝。



大徳寺総見院
リンクボタン総見院

 一周忌までに信長の塔所として建てられたのが塔頭の総見院



本能寺跡
リンクボタン本能寺跡
本能寺
リンクボタン本能寺

 本能寺の変が起こった当時の本能寺は、現在地ではなく、四条堀川の辺りにあったのだという。

 焼失した本能寺は、1589年(天正17年)に豊臣秀吉の命により寺町御池に移転。



本能寺の変





〜北条早雲と大徳寺〜

 戦国大名の嚆矢(こうし)ともいわれる北条早雲は、京で室町幕府に出仕していた頃に建仁寺や大徳寺で禅を学んだのだという。

 のちに伊豆国の韮山城を奪って関東侵略の拠点とした早雲は、香山寺に大徳寺83世の以天宗清(いてんそうせい)を住まわせた。

 その後、宗清は小田原北条氏の菩提寺早雲寺の開山となっている。


早雲寺
リンクボタン早雲寺





〜平康頼の塔〜

 平康頼は、鹿ケ谷の陰謀に加わり鬼界ヶ島に流されるが、卒塔婆流しの効があって赦免となる。

 平家滅亡後は、源頼朝から阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命された。


平康頼の塔(大徳寺)
リンクボタン平康頼の塔





大徳寺
大徳寺

京都市北区紫野大徳寺町53

JR京都駅から市バス「大徳寺」下車。



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