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2022年の大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。 北条義時が鎌倉幕府の権力者となるまでを描いたドラマになるそうです。 |
「鎌倉殿」は、鎌倉武家政権の長。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝。 10月6日(7日とも)には源氏ゆかりの鎌倉に入って本拠とし、12月12日には新造の御所で御家人311人から「鎌倉の主」に推戴されました。 ![]() |
「鎌倉殿」=「征夷大将軍」であったとは限りません。 1180年(治承4年)、源頼朝は関東を制圧して鎌倉殿と呼ばれるようになりますが、征夷大将軍になったのは1192年(建久3年)のこと。 二代源頼家は、1199年(建久10年)1月に家督を相続しますが、征夷大将軍になったのは1202年(建仁2年)7月のこと。 1219年(建保7年)1月、三代源実朝が暗殺された後は・・・ 『吾妻鏡』は、北条政子を鎌倉殿として扱っているようです。 ![]() |
「13人」とは、源頼朝に仕えた有力者たちのうち、頼朝亡き後、二代頼家の時代に執られた政策「十三人の合議制」の構成員。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1199年(建久10年)1月13日、鎌倉に武家の都を創った源頼朝が死去すると、嫡男の頼家は20日に左中将となり、26日には頼朝の家督を相続します。 しかし・・・ 頼家の政治手腕に不安を抱いた宿老たちは、4月12日、頼家が直接訴訟を裁断することを停止させ、宿老十三人による合議によって裁判することを決定しています。 ただこれは、『吾妻鏡』から推測できる理由であって、実際がどのような理由から親裁停止としたのかは議論があるようです。 |
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![]() −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
鶴岡八幡宮は、源頼朝が武家の都の中心に据えた武門の神。 |
![]() ![]() (鎌倉) |
![]() (東京都目黒区) |
覚園寺は、北条義時が建てた大倉薬師堂を前身とする寺。 大円寺の本尊・清凉寺式釈迦如来は、北条義時の菩提を弔うために建てられた釈迦堂(鎌倉・廃寺)にあった像と伝わる。 |
![]() ![]() (京都) |
![]() 六波羅探題府跡碑 (京都) |
六波羅探題は、承久の乱後に朝廷の動きを監視するため設置された鎌倉幕府の出先機関。 |
![]() (伊豆の国市) |
![]() (伊豆の国市) |
北條寺は北条義時創建と伝わる寺で、裏山には義時と後妻伊賀の方の墓が建てられている。 豆塚神社は、北条義時が崇敬したという社。 |
願成就院は、1189年(文治5年)、北条時政が源頼朝の奥州討伐の戦勝を祈願して建立。 北条三代(時政、義時、泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めた。 本尊阿弥陀如来坐像・不動明王と二童子像(矜羯羅童子・制咤迦童子)・毘沙門天像は、時政の発願により造立された運慶の真作。 |
![]() ![]() (伊豆の国市) |
![]() (伊豆の国市) |
1224年(元文元年)6月13日に死去した北条義時は、源頼朝の墳墓の東の山上に葬られた。 |
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60年に一度の祭礼![]() |
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