鎌倉手帳(寺社散策)

ぼんぼりぼんぼり祭 観音四万六千日
黒地蔵縁日黒地蔵縁日 江の島灯籠江の島灯籠
渋沢栄一2021年大河「晴天を衝け」
北条義時2022年大河「鎌倉殿の13人」



鎌倉殿の13人
(2021/08/04更新)

編集:yoritomo-japan.com







 2022年の大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。

 北条義時が鎌倉幕府の権力者となるまでを描いたドラマになるそうです。


武士


リンクボタン「鎌倉殿」とは?

リンクボタン「13人」とは?

リンクボタン合議制の構成員13人

リンクボタン関連人物

リンクボタン合戦・謀反・暗殺

リンクボタン北条義時ゆかりの寺社・史跡

リンクボタン「鎌倉殿の13人」関係地めぐり


大河ドラマ館
韮山時代劇場
韮山時代劇場
(伊豆の国市)
鶴岡ミュージアム
リンクボタン鶴岡ミュージアム
(鎌倉市)

 北条義時生誕の地では、「韮山時代劇場」に決定されています。

 鎌倉は・・・
 鶴岡八幡宮境内にある鶴岡ミュージアムの予定ということです。




「鎌倉殿」とは?

 「鎌倉殿」は、鎌倉武家政権の長。

 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国源氏再興の挙兵をした源頼朝

 10月6日(7日とも)には源氏ゆかりの鎌倉に入って本拠とし、12月12日には新造の御所で御家人311人から「鎌倉の主」に推戴されました。

 リンクボタン新亭完成・武家の都の誕生


〜鎌倉殿と征夷大将軍〜

 「鎌倉殿」=「征夷大将軍」であったとは限りません。

 1180年(治承4年)、源頼朝は関東を制圧して鎌倉殿と呼ばれるようになりますが、征夷大将軍になったのは1192年(建久3年)のこと。

 二代源頼家は、1199年(建久10年)1月に家督を相続しますが、征夷大将軍になったのは1202年(建仁2年)7月のこと。

 1219年(建保7年)1月、三代源実朝が暗殺された後は、九条頼経が鎌倉殿として迎えられますが・・・

 頼経が幼かったことから北条政子が後見人となり、尼将軍と呼ばれるようになります。

 以後、『吾妻鏡』では政子を鎌倉殿として扱っているようです。

 リンクボタン鎌倉殿:北条政子


〜鎌倉殿〜

源頼朝

 源頼朝は、河内源氏の棟梁源義朝の子。
 母は由良御前
 1159年(平治元年)の平治の乱後、伊豆国蛭ヶ小島に流されていましたが、1180年(治承4年)に挙兵
 鎌倉を本拠として武家の都を築き上げました。

源頼家

 源頼家は、頼朝の次男(北条政子の長男)。
 頼朝亡き後、家督を継ぎますが・・・
 乳母夫の比企能員と外祖父の北条時政の争いに巻き込まれ、伊豆の修禅寺に幽閉された後、暗殺されました。

源実朝

 源実朝は、頼朝の四男(北条政子の次男)。
 兄頼家の失脚後、家督を継ぎ、後鳥羽上皇とも良好な関係を築いていましたが、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式後に甥の公暁に暗殺されました。




「13人」とは?

 「13人」とは、源頼朝に仕えた有力者たちのうち、頼朝亡き後、二代頼家の時代に執られた政策「十三人の合議制」の構成員。


〜宿老13人の合議制〜

 『吾妻鏡』によると・・・

 1199年(建久10年)1月13日、鎌倉に武家の都を創った源頼朝が死去すると、嫡男の頼家は20日に左中将となり、26日には頼朝の家督を相続します。

 しかし・・・

 頼家の政治手腕に不安を抱いた宿老たちは、4月12日、頼家が直接訴訟を裁断することを停止させ、宿老十三人による合議によって裁判することを決定しています。

 ただ、上記の理由は『吾妻鏡』から推測できるものであって、どのような理由から親裁停止としたのかは議論があるようです。

 また、親裁停止ではなく、訴訟制度を整備したもので、「頼家への取次者13人が決定された」という説があります。

 さらに、頼朝亡き後、幕府の主導権を握ったのは、大江広元中原親能ら貴族出身の官僚であったことから、有力御家人の不満があったという説も。


宿老13人の合議制


(参考)
 頼朝の死の直後に起きた三左衛門事件を鎮静させたのは、大江広元中原親能だった。

リンクボタン頼朝の死と二代鎌倉殿頼家と三左衛門事件


(参考)
 1200年(正治2年)5月の陸奥国の境界裁定は、三善康信の取次によって頼家が裁決したものだった。

リンクボタン源頼家の境界裁定

リンクボタン源頼家の領地再分配政策




合議制の構成員13人

 合議制の構成員のうち、4人は京都出身の官僚。

 8人は経験豊かな御家人。

 そして、もう一人は当時38歳だったという若い北条義時


北条時政

 北条時政は、伊豆国田方郡北条を拠点とした在地豪族で源頼朝挙兵を援助しました。
 頼朝亡き後、梶原景時比企能員畠山重忠を滅ぼしますが、後妻の牧の方とともに謀反を企てて伊豆国に追放され、北条の地で亡くなりました。

北条義時

 北条義時は、北条時政の次男。
 頼朝に信頼されて側近として活躍し、父時政の失脚後は執権として幕政に関わりました。
 和田義盛を滅ぼし、後鳥羽上皇が起こした承久の乱を鎮圧しています。

大江広元

 大江広元は、頼朝に招かれて鎌倉に下向してきた公家。
 公文所・政治の別当を務めました。

三善康信

 三善康信の母は頼朝の乳母の妹。
 頼朝に誘われて鎌倉に下向し、問注所の執事を務めました。

中原親能

 中原親能は、幕府の草創期に頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人。
 大江広元の兄。
 妻の亀谷禅尼は、頼朝の次女三幡の乳母を務めています。

三浦義澄

 三浦義澄は、頼朝の挙兵時に命を落とした三浦義明の次男。
 鶴岡八幡宮で行われた頼朝の征夷大将軍の辞令交付では、義澄が辞令を受け取りました。

八田知家

 八田知家は、下野国宇都宮氏の二代当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。
 頼朝の乳母寒河尼の兄弟。

和田義盛

 和田義盛は、杉本義宗三浦義明の長男)の子。
 侍所の別当を務めましたが、頼朝亡き後、北条義時に滅ぼされました。

比企能員

 比企能員は、頼朝の乳母比企尼の猶子(甥)。
 源頼家の乳母夫となり、娘の若狭局が頼家の側室となって一幡を産んだことから権勢を強めますが、北条時政に暗殺されました。

安達盛長

 安達盛長は、頼朝が伊豆国蛭ヶ小島の流人だった頃からの側近。
 妻は、比企尼の長女・丹後内侍。

足立遠元

 足立遠元は、武蔵国足立郡を本拠とした豪族。

梶原景時

 梶原景時は、石橋山の戦いで平家方にありながら頼朝を助けたという武将。
 頼朝亡き後、結城朝光を讒言したとして鎌倉を追放され、駿河国清見関で討死しました。

二階堂行政

 二階堂行政の母は頼朝の母由良御前の従姉妹。



 源頼朝の時代は完全な独裁政治。

 頼朝は武家の棟梁として東国の武士団(御家人)との主従関係を維持する一方で、公家を側近(官僚)として採用します。

 官僚は、次第に地位が高められて大きな権限を持つようになりますが、頼朝の時代は、その独裁によって御家人と官僚との調和が保たれていたようです。

 しかし、頼朝が亡くなると、そうはいきません。

 有力御家人と官僚の双方が納得する決着点が「13人の合議制」だったという説があります。

 また、若い北条義時が構成員に名を連ねた背景には、父に北条時政と姉の北条政子の存在が大きいのかと思われますが、時政と義時は他の御家人とは異なり、官僚に近い立場にあったという説もあります。









関連人物

源頼朝の正妻
北条政子

伊東祐親の娘・頼朝の最初の妻
八重姫

北条政子・義時の兄
北条宗時

頼朝と政子の長女
大姫

頼朝と政子の次女
三幡

北条時政の後妻 政子・義時の継母
牧の方

頼朝の愛人
亀の前

頼朝の乳母・比企能員の義母
比企尼

頼朝の乳母・小山政光の妻
寒河尼

源頼朝の弟
阿野全成

政子の妹・全成の妻
阿波局

源頼朝の弟
源義経

頼朝・義経・全成の父
源義朝

源頼朝・源義経の叔父
源行家

源頼朝・義経の従兄弟
木曽義仲

義仲の嫡子・大姫の許嫁
木曽義高

義仲の妾
巴御前

甲斐源氏
武田信義

北条義時の正室
姫の前

北条義時の後妻(継室)
伊賀の方

北条義時の子
北条泰時

北条政子・義時の異母弟
北条時房

三浦義澄の子
三浦義村

和田義盛の三男
朝比奈義秀

頼朝の乳母山内尼の子
山内経俊

頼朝に挙兵を勧めた怪僧
文覚

牧の方の父もしくは兄
牧宗親



源頼朝を救った武将
土肥実平

頼朝の挙兵に参じた四兄弟
佐々木四兄弟

源頼朝に鎌倉入りを進言
千葉常胤

梶原景時に暗殺された
上総広常

頼朝の乳母寒河尼の子
結城朝光

鎌倉武士の鑑
畠山重忠

畠山重忠の弓馬の友
下河辺行平

無常観を感じて出家
熊谷直実

比企能員を暗殺した武将
仁田忠常

比企能員を暗殺した武将
天野遠景

木曽義高誅殺を命じられた武将
堀親家

曽我兄弟に討たれた武将
工藤祐経



我が国で初めて武家政権を樹立
平清盛

頼朝を助けた清盛の継母
池禅尼


平家方:相模国大庭郷の武将
大庭景親

平家方:伊豆国伊東の武将
伊東祐親

伊東祐親の次男
伊東祐清


平清盛の三男:平家軍総大将
平宗盛

平清盛の五男:南都焼討の武将
平重衡



後白河法皇

丹後局(高階栄子)

平知康

後鳥羽上皇



義経を匿った北方の王者
藤原秀衡

中尊寺ハス



義時の時代に活躍した仏師
運慶



江間小四郎と呼ばれた北条義時
江間小四郎義時

八重姫・政子・亀の前・大進局など
源頼朝に関わった女性〜妻・妾・落胤〜

頼朝の血筋:子・孫
源頼朝の子・孫〜断絶した頼朝の血筋〜

義経の郎党
源義経に臣従した武蔵坊弁慶

源実朝の家集
金槐和歌集

江の島と義経伝説
源義経とあさひ天女

時政から高時まで
北条九代


源頼朝の好物

源頼朝の好物









合戦・謀反・暗殺

以仁王の令旨と源頼朝

平家打倒の命令書〜以仁王の令旨〜

 1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子以仁王は、源頼政の申し入れを受けて、源頼朝をはじめとする全国の源氏に平家打倒の令旨を発します。

源頼朝挙兵

山木館襲撃〜源頼朝の挙兵〜

 挙兵した頼朝の最初の標的は、伊豆国の目代山木兼隆
 山木館襲撃は、崇敬していた三嶋社の祭礼の日(8月17日)でした。
 そして、8月20日、相模国へ進軍。
 軍勢ぞろいの地は、函南町の高源寺と伝えられています。

石橋山の戦い

小坪・衣笠合戦

源頼朝鎌倉入り

 山木館襲撃後、相模国へ進軍した頼朝は、石橋山の戦いで敗れてしまいますが、安房国に渡って再挙し、10月6日、大軍を率いて鎌倉に入ります。


富士川の戦い

 頼朝の挙兵に敵対した大庭景親伊東祐親富士川の戦いで捕えられています。


野木宮合戦

 1183年(寿永2年)2月、頼朝の叔父志田義弘は、頼朝討滅を企てますが、野木宮合戦で敗走し、木曽義仲と合流しています。


上総広常暗殺

 1183年(寿永2年)12月、頼朝は挙兵に功のあった上総広常梶原景時に命じて暗殺します。


源義経が活躍した合戦
源平合戦〜一ノ谷・屋島・壇ノ浦〜


宇治川の戦い

 1184年(寿永3年)1月20日、源範頼源義経木曽義仲を滅ぼします。

一ノ谷の戦い

 1184年(寿永3年)2月7日、源範頼源義経一ノ谷に拠る平家を攻めます。

木曽義高の誅殺

 1184年(寿永3年)4月26日、鎌倉に人質として置かれていた木曽義仲の嫡男義高が誅殺されます。

三日平氏の乱と源義経

 一ノ谷の戦い後に起こった伊賀・伊勢の平家残党の反乱を源義経が鎮圧。

屋島の戦い

 1185年(元暦元年)2月19日、屋島に拠る平家を源義経が奇襲。

壇ノ浦の戦い

 1185年(元暦元年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。


源義経の腰越状

 源平の戦いで活躍した義経でしたが、頼朝と対立し、逃亡生活を送ることに。

源義経の謀反

土佐坊昌俊の源義経襲撃

吉野山

静の舞

 1186年(文治2年) 4月8日、義経と吉野山で別れた静御前は、鎌倉の鶴岡八幡宮で義経を慕う舞を披露。

源義経最期の地〜平泉:高館義経堂〜

 1189年(文治5年)閏4月30日、奥州平泉衣川館で、源義経自刃!


奥州征伐

 1189年(文治5年)9月3日、奥州平泉の藤原泰衡が討たれたことで、奥州藤原氏が滅亡。


富士裾野の巻狩り

 富士裾野の巻狩りは、1193年(建久4年)、征夷大将軍となった頼朝が催した大軍事演習。

曽我兄弟の仇討

 巻狩りの最中に起こったのが曽我兄弟の仇討ち、それは源範頼の謀反へと繋がっていきます。

源範頼の謀反



 源頼朝亡き後、幕府政治で最も重要な訴訟裁決が将軍の手から離れたことで、幕府の実権も御家人に移ることとなりますが、それは有力御家人間の対立を生むことになります。


梶原景時の変

 1200年(正治2年)正月20日、鎌倉を追放された梶原景時が、上洛途上の駿河国で討死。

建仁の乱

 建仁の乱は、1201年(正治3年)に梶原景時の庇護をうけていた城氏の反乱。
 巴御前と並び称される女武者・板額御前が活躍。

阿野全成の誅殺

 1203年(建仁3年)6月23日、謀反を企てたとして捕えられた阿野全成が、流された常陸国で八田知家に誅殺される。
 全成は、頼朝の異母弟で義経の同母兄。

比企能員の暗殺

 1203年(建仁3年)9月2日、比企能員北条時政に暗殺される。
 比企一族も北条義時らに攻められて滅亡。

三日平氏の乱〜平賀朝雅〜

 1204年(元久元年)4月、平賀朝雅が伊賀・伊勢の平家残党の反乱を鎮圧。

源頼家の暗殺

 1204年(元久元年)7月18日、比企能員の変後、伊豆の修禅寺に流されていた源頼家が暗殺されます。

畠山重忠の乱

 1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略により畠山重忠が滅亡。

牧氏の変〜牧の方の陰謀〜

 1205年(元久2年)閏7月20日、北条時政が後妻牧の方平賀朝雅を将軍に据えようと企てて鎌倉を追放されました。

和田合戦

 1213年(建暦3年)5月3日、北条義時打倒の挙兵をした和田義盛が滅亡。


源実朝の暗殺

 1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した源実朝が甥の公暁に暗殺されます。

 後鳥羽上皇と良好な関係にあった実朝の死は、幕府と後鳥羽上皇の関係を急速に悪化させます。

源実朝が暗殺された日

北条義時と戌神将の伝説


承久の乱

 1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇北条義時追討の院宣を下します。

北条政子の言葉〜承久の乱〜

 北条政子の出撃命令により、幕府軍は19万騎で京都に向けて進軍し、6月15日に入京。
 後鳥羽上皇は隠岐に流されました。

宇治川の戦い〜承久の乱〜

瀬田の合戦〜承久の乱〜


伊賀氏の変

 1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が死去。
 伊賀氏の変は、伊賀光宗と義時の後妻伊賀の方を起こした政変。



辻薬師堂戌神将
リンクボタン戌神像

 京都文化博物館特別展「よみがえる承久の乱」で展示された鎌倉の辻の薬師堂の戌神像。

 北条義時が建てた大倉薬師堂の戌神像(運慶作)の模刻と考えられている。


〜後鳥羽上皇自作の太刀〜

太刀 菊御作
リンクボタン太刀 菊御作
(たち きくごさく)

 「菊御作」は、後鳥羽上皇が北条義時追討の挙兵に際して士気を鼓舞するため、自らが鍛えたものと伝えられている。


〜巴御前が帯びた太刀〜

太刀 銘有綱
リンクボタン太刀 銘有綱

 「太刀 銘有綱」は、巴御前が帯びていたと伝えられている太刀(個人蔵)。









北条義時ゆかりの寺社・史跡


鶴岡八幡宮
鎌倉観光鶴岡八幡宮

 鶴岡八幡宮は、源頼朝が武家の都の中心に据えた武門の神。 


鎌倉覚園寺
鎌倉観光覚園寺
(鎌倉)
目黒 大圓寺
リンクボタン大円寺
(東京都目黒区)

 覚園寺は、北条義時が建てた大倉薬師堂を前身とする寺。

 大円寺の本尊・清凉寺式釈迦如来は、北条義時の菩提を弔うために建てられた釈迦堂(鎌倉・廃寺)にあった像と伝わる。


六波羅蜜寺
リンクボタン六波羅蜜寺
(京都)
六波羅探題府址碑
リンクボタン平氏六波羅第・
六波羅探題府跡碑

(京都)

 六波羅探題は、承久の乱後に朝廷の動きを監視するため設置された鎌倉幕府の出先機関。


北條寺
リンクボタン北條寺
(伊豆の国市)

 北條寺北条義時創建と伝わる寺で、裏山には義時と後妻伊賀の方の墓が建てられている。


豆塚神社
リンクボタン豆塚神社
(伊豆の国市)
珍場神社
リンクボタン珍場神社
(伊豆の国市)

 豆塚神社は、北条義時が崇敬したという社。

 珍場神社には、嫡子安千代丸の霊が祀られている。


願成就院
リンクボタン願成就院
(伊豆の国市)

 願成就院は、1189年(文治5年)、北条時政源頼朝奥州討伐の戦勝を祈願して建立。
 北条三代(時政義時泰時)にわたって、次々に堂宇が建立され繁栄を極めた。
 本尊阿弥陀如来坐像・不動明王と二童子像(矜羯羅童子・制咤迦童子)・毘沙門天像は、時政の発願により造立された運慶の真作。
 伽藍は平泉毛越寺を模したものだったという。


北条氏邸跡
リンクボタン北条時政邸跡
(伊豆の国市)
北条義時邸跡(江間公園)
リンクボタン北条義時邸跡
(伊豆の国市)


北条義時法華堂跡
リンクボタン北条義時法華堂跡
(鎌倉)

 1224年(元文元年)6月13日に死去した北条義時は、源頼朝の墳墓の東の山上に葬られた。



〜北条の家紋は江の島龍神の鱗〜

江の島
リンクボタン江の島

 鎌倉幕府の草創のはじめ、北条時政江の島に参籠したのだという。

 その時、龍神が落としていった3つの鱗を北条の家紋としたのだとか(ミツウロコ(三つ鱗))。


北条時政の龍神伝説









「鎌倉殿の13人」関係地めぐり


〜鎌倉で源頼朝と北条氏〜

源頼朝をめぐる鎌倉

北条氏をめぐる鎌倉



〜源頼朝と北条氏ゆかりの地〜

源頼朝配流地・北条氏発祥地

北条の里〜頼朝・時政・政子めぐり〜

伊豆・箱根

熱海の源頼朝伝説



〜鎌倉幕府の公式行事・二所詣〜

源頼朝の伊豆・箱根の二所詣


伊豆山神社

箱根神社

三嶋大社



〜鎌倉との繋がりを求めて〜

奈良・京都

源義経をめぐる京都

奥州平泉

源頼朝をめぐる大阪

源義朝終焉の地



〜頼朝と善光寺〜

信濃善光寺

甲斐善光寺

源頼朝像と善光寺



源氏ボタルよりともくん。
リンクボタン源頼朝キャラクター







源頼朝ゆかりの武将

歴史めぐり源頼朝



鎌倉:寺社・史跡巡り


鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)


鎌倉ニュース 60年に一度の祭礼
円覚寺洪鐘祭

2022年の大河は北条義時
鎌倉殿の13人 北条義時