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『源氏物語』は、紫式部が主人公の光源氏を通して、平安時代の貴族社会を描いた長編物語。 夫の藤原宣孝と死別した紫式部は、その現実を忘れるために物語を書き始める。 それが『源氏物語』。 物語の評判を知った藤原道長は、長女で一条天皇の中宮・藤原彰子の教育係として紫式部を宮中に仕えさせた。 当時、紙は貴重なもの。 紫式部は道長の支援を受けて54帖からなる『源氏物語』を完成させた。 『源氏物語』が文献上で初めて登場するは、1008年(寛弘5年)11月1日。 『紫式部日記』の藤原公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ記事。 「若紫」とは『源氏物語』の登場人物・紫の上のこと。 また、同年、懐妊のため土御門殿に里下がりをしていた彰子は、皇子を出産した後、紫式部に草子作りを命じている。 この草子は『源氏物語』のことと推測されている。 |
※ | 11月1日は「古典の日」に制定されている。 |
※ | 「草子」は紙を折り重ねて綴じた書物。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ 御草子作り~藤原彰子のもとで清書された『源氏物語』:紫式部日記~ 藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~ 紫式部の歌~源氏物語について交わした藤原道長との贈答歌~ |
紫式部の邸宅は、廬山寺が建つ地にあったと考えられている。 西側には、京都御所があり、藤原道長の土御門殿の跡や紫式部が出仕した枇杷殿の跡がある。 南には道長が建立した法成寺があったと伝えられ、蘆山寺や清浄華院の地には藤原彰子の東北院もあったのだという。 |
996年(長徳2年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下っている。 『源氏物語』には、越前の事も描かれている。 紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。 |
紫式部公園には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれている。 |
石山寺の「源氏の間」は、本堂の相の間にある部屋。 中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見た紫式部は・・・ この部屋で蟄居を余儀なくされた在原行平の須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」・「明石」の両巻から『源氏物語』を書き始めたのだという。 |
1258年(正嘉2年)5月、北条実時は『源氏物語』を写した「河内本」の原本を借りて書写させている。 それが尾張徳川家に伝えられた「尾州家本源氏物語」なのだとか。 |
北条実時と源氏物語~尾張徳川家に伝えられた源氏物語~ |
平安時代末の『今鏡』や鎌倉時代初期の『無名草子』には、『源氏物語』は60帖だったと記されている。 源氏供養の願文「源氏一品経」が収められている三千院の『拾珠抄』にも60帖の記載があるらしい。 |
紫式部は『源氏物語』~蛍の巻~に光源氏の言葉として、 「日本紀などは、ただ、片そばぞかし。これらにこそ、道々しく、くはしき事はあらめ」 (『日本紀』などは、ほんの一部分にすぎない歴史で、物語にこそ道理にかなった詳しいことが書かれている) と語っている。 赤染衛門が作者といわれる『栄花物語』は、「紫式部の物語論」の影響を強く受けているらしい。 |
紫式部の物語論~『源氏物語』~蛍の巻~ |
桐壺(きりつぼ) |
主人公の光源氏は、桐壺帝と桐壺更衣との間に生まれた皇子。 光り輝く美しい皇子だったため「光る君」と呼ばれた。 しかし、母の桐壺更衣とは3歳のときに死別。 12歳で元服し、臣籍降下して源姓を与えられた光る君は、左大臣の娘・葵の上と結婚するが・・・ 父に入内した母に生き写しの藤壺に密かな想いを寄せる・・・。 |
光源氏が誕生したのは、天皇の住まいである御所。 ただ、当時の御所は、現在の京都御所の西方約2キロのところにあった。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮(大内裏)は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 光源氏の兄・朱雀帝は紫宸殿で、光源氏は清涼殿で元服。 弘徽殿には、朱雀帝の母・弘徽殿女御が居住。 淑景舎には、光源氏の母・桐壺更衣が居住。 飛香舎には、桐壺更衣亡き後、桐壺帝の後妻となった藤壺中宮が住んだ。 |
大極殿跡 |
豊楽殿跡 |
大極殿は、大内裏(平安宮・宮城)朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 |
紫宸殿跡 |
清涼殿跡 |
弘徽殿跡 |
淑景舎跡 |
朱雀帝の母・弘徽殿女御が住んだ弘徽殿は、内裏の後宮七殿五舎の一つで、後宮で最も格の高い殿舎。 桐壺更衣が住んだ淑景舎も内裏の後宮七殿五舎の一つ。 |
飛香舎跡 |
東鴻臚館址 |
藤壺が居所とした飛香舎は、清涼殿の北西に隣接していたことから中宮や有力な女御の局となった。 紫式部が仕えた藤原彰子も飛香舎を賜っている。 桐壺帝は幼い光源氏を鴻臚館に滞在していた高麗人に人相占いさせている。 |
帚木(ははきぎ) |
ある五月雨の夜、光源氏は、頭中将・左馬頭・藤式部丞の4人で女性談義(雨夜の品定め)。 この女性談義は、宮中が御物忌のときに外出できない光源氏のもとに集まって行われた。 中流階級の女性に関心をもった光源氏は・・・ 翌日、方違えのため訪れた紀伊守邸で、伊予介の後妻・空蝉のことを聞き、深夜、空蝉の寝所に忍び込む・・・ |
方違え~方位神のいる方角を避ける陰陽道の信仰~ |
帚木は、信濃国園原伏屋にある木。 遠くから見れば箒を立てたように見えるが、近寄ると見えなくなるという伝説の木。 そのことから、近づいても逢ってくれない人、逢えそうで逢えない人の喩えに用いられた。 |
藻壁門を入ると左馬頭の左馬寮があった。 |
空蝉(うつせみ) |
空蝉を忘れられない光源氏は、再び紀伊邸へ。 光源氏の気配を感じた空蝉は、小袿を脱ぎ捨てて逃げ去ってしまう。 光源氏は、空蝉と間違えて軒端荻(空蝉の義理の娘)と契り、残された小袿を持ち帰る・・・ 空蝉は、紫式部自身がモデルとも・・・ |
梨木神社は、空蝉が住んでいた中川の家の跡ともいわれている。 |
夕顔(ゆうがお) |
夕顔は、光源氏の愛人。 五条あたりの白い夕顔の咲く家に住んでいた。 あるとき、光源氏は夕顔を寂れた某院に連れ出すのだが、物の怪が現れて命を落とす・・・ |
夕顔之墳 |
遍照寺 |
夕顔之墳は、夕顔の墓が建てられている地にある石碑。 夕顔は、遍照寺で急死した村上天皇の第七皇子・具平親王の妾妻・大顔がモデルなのだとか。 |
源融 河原院址 |
渉成園 |
河原院は、光源氏のモデルの一人とされる源融の邸宅。 渉成園は、東本願寺の飛地境内地で河原院の一部に造営された庭園。 光源氏が夕顔を連れ出した某院は河原院がモデルといわれる。 |
「夕顔」の巻では、清水寺の方は灯かりがたくさん見えて、参詣者も多いことが描かれている。 |
若紫(わかむらさき) |
病気の治療のため北山を訪れた光源氏は、通りかかった家で藤壺に似た少女を垣間見る。 少女は藤壺の姪で、母が早くに亡くなったので、祖母の北山の尼君のもとで育てられていた。 光源氏は、少女を引き取って育てることにする。 この少女が後の紫の上。 |
鞍馬寺 |
大雲寺 |
鞍馬寺と大雲寺は、「若紫の巻」の「北山のなにがし寺」のモデルといわれる。 |
末摘花(すえつむはな) |
亡き常陸宮の姫君のもとへ通うようになった光源氏。 ある朝、雪明かり照らされた姫の顔を覗き込むと、鼻が像のように大きく垂れ下がり、紅花のように赤かく、醜い有様だった・・・ それでも、困窮している姫に同情して、暮らし向きへの援助をすることに・・・ 姫君は鼻の先が赤いから末摘花と呼ばれる・・・ |
紅葉賀(もみじのが) |
桐壺帝は藤壺が懐妊して大喜び、だが、実は光源氏の子。 光源氏は複雑な思いの中、紅葉の美しい10月、帝の御前で「青海波」を舞う・・・ 翌年、藤壺は、のちに冷泉帝となる皇子を出産し、中宮となった・・・ 生まれた子は光源氏に生き写しだったのだとか。 |
「青海波」を舞った光源氏と頭中将は、後日、桐壺帝に仕える年配の女官・源典侍に悪戯する・・・ その舞台が温明殿。 |
花宴(はなのえん) |
春、紫宸殿では花の宴。 光源氏は、頭中将らと漢詩作って舞を披露した後、弘徽殿で「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさむ若い姫君と出逢い、そして、契りを交わす。 その姫君は右大臣の娘・六の君で、東宮(皇太子)への入内を控えていた・・・ |
紫宸殿は、内裏の正殿。 |
光源氏と朧月夜は弘徽殿で出逢った。 |
葵(あおい) |
桐壺帝が、光源氏の異母兄・朱雀帝に譲位。 そんな中、光源氏が賀茂祭で斎王の禊の儀式に同行することに。 光源氏を一目見ようと都中の女性たちが一条大路に集まり、大混雑する中・・・ 正妻の葵の上と愛人の六条御息所が牛車を停める場所めぐっていさかいを起こす。 侮辱を受けた六条御息所は葵の上を呪い、葵の上は8月に夕霧を出産した後に死去。 |
葵の上と六条御息所が賀茂祭見物に出かけたのは一条大路。 藤原道長・清少納言らが賀茂祭を見物した大路。 |
賀茂別雷神社 (上賀茂神社) |
賀茂御祖神社 (下鴨神社) |
斎王が主宰していた賀茂祭(葵祭)は、上賀茂神社と下鴨神社の祭礼。 紫式部の時代の斎王は選子内親王。 |
葵の上と六条御息所が車争いを繰り広げたのは、一条戻橋付近らしい。 |
賢木(さかき) |
光源氏との間に生まれた東宮(皇太子)のことが心配な藤壺。 右大臣一派の圧力もあり、藤壺は光源氏に冷たい対応をする。 光源氏との結婚を諦めた六条御息所は、娘の斎宮(のちの秋好中宮)と伊勢へ下ることを決意。 |
雲林院は、賢木の巻で光源氏が参籠した寺。 |
野宮神社は、斎宮が伊勢に赴く前に身を清めたという「野宮」(ののみや)の地に鎮座。 |
斎宮邸は、斎王(斎宮)の居所で、西京高校がその跡地の一つとされている。 |
『伊勢物語』で斎宮の女房と勅使の男が詠んだ歌と、『源氏物語』で六条御息所と光源氏が詠んだ歌。 |
ちはやぶる 神の斎垣~伊勢物語と源氏物語の歌~ |
花散里(はなちるさと) |
五月雨の頃、光源氏は故桐壺院の妃の一人麗景殿女御と、その妹で恋人の三の君(花散里)を訪ねる。 |
花散里が住んでいた中川の家は、梨木神社辺りだったのではないかといわれている。 |
須磨(すま) |
右大臣の娘・朧月夜との密会が露見し、追い詰められた光源氏は自ら摂津国の須磨へ赴く。 一年が経った3月、須磨の浦で禊をしていた光源氏は豪風雨に襲われる・・・ |
須磨へ赴く光源氏と都に残される紫の上。 |
須磨寺の源平の庭には光源氏が植えた「若木の桜跡」が・・・ |
現光寺 |
関守稲荷神社 |
現光寺は源氏寺とも呼ばれ、本堂横には「光源氏月見の松」がある。 関守稲荷神社は、光源氏が須磨に蟄居していた際に巳の日祓をした場所とみなして「巳の日稲荷」とも呼ばれている。 |
須磨に赴く前、下鴨神社を参拝した光源氏は、糺の森で 「うき世をば今ぞ離るる留まらむ名をばただすの神にまかせて」 と詠んだ。 |
明石(あかし) |
連日のように豪風雨が続く中、亡き桐壺帝が光源氏の夢枕に現れ、住吉の神の導きに従い須磨を離れるように告げる。 翌朝、明石入道の舟で明石へと移り、明石入道邸で明石の君と出会う・・・ |
住吉大社は、豪風雨に襲われた光源氏が祈った社。 |
善楽寺戒光院 |
無量光寺 |
善楽寺戒光院には、「明石入道の碑」や光源氏の「明石の浜の松」がある。 無量光寺は光源氏の月見の寺。 山門前の蔦の細道は、光源氏が明石の君の岡辺の家へ通うときに使ったという道。 |
岡之屋形跡歌碑 |
如意寺 |
岡之屋形跡歌碑は、明石の君の岡辺の家跡に建てられた碑。 『源氏物語』~明石の巻~は、如意寺を再興した願西尼からの情報があって描かれたとう説がある。 |
澪標(みおつくし) |
帰洛の宣旨があった光源氏は、身籠った明石の君を残して都へ。 都では、朱雀帝が冷泉帝に譲位し、光源氏は内大臣に。 明石の君も無事に女子を出産。 お礼のため住吉の神に詣でる。 |
勧修寺は、醍醐天皇が母藤原胤子の菩提を弔うために建てた寺。 胤子の父・藤原高藤と母・宮道列子は紫式部の先祖。 光源氏と明石の君の恋の話は、身分の低い列子と貴公子・高藤の恋の話がモデルであるとされる。 |
蓬生(よもぎう) |
光源氏が都を追われた後、生活を援助していた末摘花の家は荒廃しきっていた。 光源氏は、二条院に引き取ることに。 |
関屋(せきや) |
帰京した翌年、石山寺参詣の途中の逢坂の関で、任期を終えて妻の空蝉ととも帰京する常陸介(元伊予介)一行と出逢う。 その後、常陸介が死去すると空蝉は出家。 尼となった空蝉を光源氏は二条院に住まわせることに。 |
逢坂の関は、山城国と近江国の国境に置かれた関所。 |
石山寺は紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺。 平安時代には石山詣が盛んに行われ、藤原道綱母・清少納言・和泉式部・赤染衛門・菅原孝標女などが参詣している。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
二条院の増築をしていた光源氏は、花散里を西の対に、末摘花と空蝉を北の対へ住まわた。 |
絵合(えあわせ) |
冷泉帝のもとに斎宮で年上の梅壺女御が入内すると、趣味が絵であったことで冷泉帝の寵愛が増す。 先に入内していた権中納言(もとの頭中将)の娘・弘徽殿女御も絵を集めて帝の気をひく。 そして、集まった絵の批評をしあう絵合が行われることに。 光源氏の須磨の絵日記を出した梅壺女御の勝利に終わった・・・ |
斎宮邸は、斎王(斎宮)の居所で、西京高校がその跡地の一つとされている。 |
松風(まつかぜ) |
二条院に明石の君を迎えようとしていた光源氏。 しかし、上京した明石の君は姫君とともに大堰川のほとりでひっそりと暮らす・・・ |
薄雲(うすぐも) |
明石の君は姫君を光源氏に委ねることとし、姫君は紫の上の養女として二条院に迎えられた。 翌年、太政大臣が亡くなり、天変地異が相次ぎ、藤壺が崩御。 出生の秘密を知った冷泉帝が光源氏に譲位をほのめかす・・・ |
二条院は、光源氏が明石の姫君を迎え入れた邸宅。 |
慈受院は薄雲御所と呼ばれ、旧地が藤原道長の法成寺の跡地にあったため『源氏物語』ゆかりの寺院とされている。 |
朝顔(あさがお) |
藤壺が崩御した頃、光源氏の叔父・桃園式部卿宮が死去。 光源氏は、賀茂斎院を退いて邸にこもっていた娘の朝顔を訪れ、長年の思いを伝えるが、朝顔は光源氏を拒む・・・ |
雪山作りと源氏物語と枕草子~紫式部と清少納言が見た雪景色~ |
賀茂斎院は、賀茂神社(下鴨神社と上賀茂神社)に奉仕した斎王の御所。 朝顔は賀茂神社に奉仕する斎王だった。 |
今宮神社の若宮社は、歴代斎王を祀る社。 |
下鴨神社にも歴代斎王神霊社が。 |
少女(おとめ) |
光源氏の息子・夕霧が12歳で元服し大学寮に入る。 新嘗祭の豊明節会では、光源氏は筑紫の五節を思い出して和歌を贈り、夕霧は五節の舞姫に選ばれた惟光の娘に和歌を贈っている。 そして、養女の斎宮女御が冷泉帝の中宮となり、光源氏は太政大臣に。 その2年後には、六条院が完成。 |
大学寮は、式部省の管轄下にあった最高教育機関。 |
唐崎神社は日吉大社の摂社。 光源氏の家来で五節の舞姫に選ばれた源良清の娘が祓を行った社。 |
五節の舞姫~新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族~ 源氏物語(少女)で描かれた光源氏の五節の舞姫~ 光源氏と筑紫の五節の贈答歌 夕霧が五節の舞姫に贈った歌 遍昭僧正の歌 天女のように美しい舞姫 |
六条院は、『源氏物語』の中で光源氏が六条京極に造営した架空の建築物。 8月の彼岸の頃に引っ越している。 |
彼岸と源氏物語~彼岸の頃は良い時節~ |
朝堂院昌福堂には、太政大臣・左大臣・右大臣の座が設けられていた。 |
玉鬘(たまかずら) |
母の夕顔が亡くなった後、筑紫に下って成長した玉鬘が帰洛。 石清水八幡宮、大和国長谷寺を参詣。 そこで出会ったのは、夕顔の侍女で今は光源氏に仕えている右近。 光源氏は玉鬘を六条院に迎えることに。 |
京都に戻った玉鬘が最初に参詣したのが石清水八幡宮。 |
玉鬘神社は、大和国長谷寺の地に建てられた『源氏物語』に登場する玉鬘を祀る社。 |
大和国長谷寺には、紫式部・赤染衛門・清少納言・藤原道綱の母・菅原孝標の娘などが参拝している。 |
初音(はつね) |
六条院で迎える初めての正月。 この世の極楽浄土のような邸宅で、光源氏は紫の上と新年を祝った。 紫の上に養育されている明石の姫君には、母の明石の君から和歌が届けられた。 花散里と玉鬘を訪ねた後、明石の君を訪ね、そのまま泊まってしまった光源氏・・・ |
鎌倉の東慶寺の初音蒔絵火取母の図柄は、明石の君が姫君に贈った和歌と関係がある。 |
胡蝶(こちょう) |
春3月、六条院の春の町では船楽が催され、秋の町でも秋好中宮による季の御読経が催された。 光源氏の異母弟・兵部卿宮は、ぜひ玉鬘をと請う・・・ 紫の上は秋好中宮と和歌を贈答。 |
蛍(ほたる) |
五月雨の頃、兵部卿宮から玉鬘に文が届いた。 返事を書かせた光源氏は兵部卿宮を呼び、蛍を放ってその光で玉鬘の姿を浮かび上がらせる。 その美しさに兵部卿宮の思いはさらに燃え上がる・・・ そのため、兵部卿宮は「蛍兵部卿宮」と呼ばれるように。 |
蛍の巻で、光源氏が六条院の花散里の御殿「夏の町」の馬場で催した「手結」(てつがい)は「打毬」(だきゅう)のことではないという説がある。 |
常夏(とこなつ) |
光源氏の長男・夕霧と自分の娘・雲居雁の仲を許すことができない内大臣(頭中将)。 玉鬘は自分の父との対面に思い悩む・・・ |
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篝火(かがりび) |
内大臣の姫君・近江の君の悪評が世間の噂に。 それを耳にした玉鬘は、光源氏に迎えられ六条院で暮らす自分を幸せに思い、次第に光源氏に心惹かれていく。 初秋の夜、玉鬘は琴を枕に光源氏に添い寝する。 光源氏は庭に焚かせた篝火にたとえて、玉鬘への恋心を歌に詠む・・・ |
野分(のわき) |
8月、六条院の庭の草花も倒れる激しい野分(台風)が、都を吹き荒れた。 見舞いに訪れた夕霧は、偶然にも紫の上の姿を垣間見て、その美しさに衝撃を受ける。 |
行幸(みゆき) |
12月、冷泉帝が大原野神社へ行幸。 玉鬘は、初めて父(内大臣)の顔を見るとともに、光源氏にそっくりの冷泉帝を見た。 光源氏は、玉鬘に尚侍としての出仕を勧め、2月の彼岸の頃、玉鬘は父親と対面することに。 |
大原野神社は、春日大社を勧請して創建された社。 |
彼岸と源氏物語~彼岸の頃は良い時節~ |
藤袴(ふじばかま) |
出仕が決まった玉鬘のもとには、蛍兵部卿宮をはじめとする求婚者からの手紙が届く。 光源氏は、夕霧を使いに出して、藤袴の花を差し入れ、秘めた思いを伝える・・・ |
真木柱(まきばしら) |
出仕前の玉鬘を得たのは、強引に契を交わした髭黒大将だった。 玉鬘にうつつをぬかす髭黒の正妻の北の方は、娘の真木柱を連れて実家に帰ってしまう。 真木柱は家を去るとき「真木の柱はわれを忘るな」という和歌を残していた。 玉鬘は参内後、六条院から去る・・・ |
京都ホテルオークラ辺りに髭黒・玉鬘邸(三条邸)があったのだという。 |
梅枝(うめがえ) |
年が明け、六条院では冷泉帝の元服に合わせて明石の姫君の裳着で大忙し。 晩になって管弦が催され、美声の弁少将が「梅枝」を歌った。 翌日、裳着の儀が執り行われ、秋好中宮が腰結いを務めた。 |
風俗博物館~道長の栄華・彰子に仕えた紫式部・源氏物語~ |
藤裏葉(ふじのうらば) |
夕霧と愛し合うようになっていた雲居雁。 夕霧は、二人の仲を反対していた内大臣に藤の花を愛でる宴に招かれ、雲居雁との結婚が許された。 明石の姫君の入内の日程も決まり、母の明石の君とも対面も叶った。 秋には、光源氏が准太上天皇の待遇を受け、冷泉帝と朱雀院が六条院に行幸した。 |
若菜(わかな)上 |
六条院への行幸後、病に伏した朱雀院。 愛娘の女三宮を光源氏に託すことに。 春、内大臣の息子・柏木が六条院で催された蹴鞠に訪れ、かねてより思っていた女三宮の姿を垣間見る・・・ |
光源氏の兄・朱雀院が出家した寺は、仁和寺がモデルらしい。 |
若菜(わかな)下 |
柏木は女三宮の姉・女二宮(落葉の宮)と結婚するが・・・ 女三宮は柏木の子を宿す。 光源氏は、懐妊した女三宮を見舞った際、偶然に柏木からの文を見つけ、真相に気づく。 柏木は病に伏す・・・ |
琵琶と源氏物語~琵琶の名手・光源氏、明石入道、明石の君~ |
柏木(かしわぎ) |
女三宮は男子を出産(のちの薫)するが、光源氏から不興を買った女三宮は出家。 絶望した柏木は夕霧に取り成しを頼むが死去。 |
柏木一 (越前市) 「紫きぶ七橋」 |
柏木二 (越前市) 「紫きぶ七橋」 |
「紫きぶ七橋」は、越前武生を流れる河濯川に架かる七つの橋の高欄にはめ込まれた『源氏物語絵巻』のレリーフ。 柏木一は、男児を出産した後、衰弱した女三宮を見舞う父の朱雀院。 柏木二は、思い悩んで病に倒れた柏木を見舞う夕霧。 |
「紫式部の泉」は、京阪「石山寺駅」の前に『源氏物語絵巻』の3場面をモチーフにつくられた噴水。 柏木三は、我が子ならぬ我が子(のちの薫)を抱く光源氏。 石山寺は、紫式部が『源氏物語』を書き始めたという寺。 |
横笛(よこぶえ) |
柏木の妻・落葉の宮を見舞った夕霧。 落葉の宮の母・一条御息所から柏木の形見の横笛を贈られる。 その夜、夕霧の夢枕に柏木が立ち、笛を伝えたい人は他にあると伝える。 その人は・・・ |
柏木の遺品・横笛~夕霧と光源氏と薫~源氏物語 |
京都御苑の一条邸跡は、五摂家のひとつ一条家の邸宅があった地。 夕霧が横笛を贈られた落葉の宮邸(一条宮)は、この辺りなのだとされる。 |
鈴虫(すずむし) |
蓮の花が盛りの夏の日、女三宮の持仏の開眼供養が営まれた。 秋には鈴虫が放たれ、光源氏は鈴虫鑑賞を口実に愛を語ったりする・・・ 8月15日には、鈴虫の宴が催され、夜には一同で冷泉院を訪問、秋好中宮の部屋にも・・・ |
冷泉院は、嵯峨天皇の離宮として造営され、譲位した上皇が後院(譲位した後の御所)として利用した。 『源氏物語』では、冷泉帝の譲位後の御所。 |
夕霧(ゆうぎり) |
柏木の未亡人落葉の宮は、母の一条御息所の病気加持のために小野の山荘にいた。 落葉の宮に思いを寄せていた夕霧は、一条御息所の見舞いを口実に小野を訪れる。 折からの霧にかこつけて宮に宿を求めるが、思いはかなわぬままに夜が明けた。 |
一条御息所と落葉宮が移り住んだ「小野の山荘」は、修学院離宮付近といわれるが、三千院付近の可能性も。 |
御法(みのり) |
大病以来、体調が優れない紫の上。 光源氏に出家を願うが、光源氏はそれを許さない・・・ 3月、紫の上の発願で法華経千部の供養が二条院で行われた。 明石の御方や花散里も訪れ、紫の上はこれが最後と別れを惜しむ。 そして、8月14日、明石の中宮と光源氏に看取られて、紫の上は息を引き取った。 |
光源氏の母・桐壺更衣と紫の上の葬儀が行われた寺のモデルは、六道珍皇寺らしい。 |
幻(まぼろし) |
年が明けても紫の上を亡くした光源氏の悲しみは増すばかり。 春・夏と季節が移る中、光源氏は出家の意思を固め、身辺整理を始める。 |
大覚寺は嵯峨天皇が営んだ離宮「嵯峨院」を前身とする。 出家した光源氏は、嵯峨に隠棲し、亡くなったらしい・・・ |
雲隠(くもがくれ) |
本文は存在しないが・・・ 光源氏が死去・・・ |
匂宮(におうのみや) |
光源氏の死後、今上帝の三の宮(匂宮)と女三宮の若君(薫、実は柏木の子)の物語が始まる・・・ |
紅梅(こうばい) |
柏木の弟・按察大納言が中の君を匂宮に嫁がせようとする。 |
竹河(たけかわ) |
鬚黒を亡くした後、玉鬘は娘たちの将来に頭を悩ませる・・・ |
光源氏の死後、『源氏物語』は宇治が舞台となる。 「宇治十帖」は、光源氏の次男の薫と孫の匂宮、 そして、 光源氏の異母弟・八の宮の美しい娘たち大君、中の君、浮舟の悲しい恋の物語。 『源氏物語』は、薫と匂宮の間で進退きわまった浮舟が出家したことで幕切れとなる。 |
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