奈良・京都

紫式部 紫式部年表



京都:清水寺

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清水寺


 清水寺(きよみずでら)は、奈良時代後期に創建された北法相宗の寺院。

 山号は音羽山。

 778年(宝亀9年)、霊夢を受け音羽山麓にたどり着いた延鎮(えんちん)が、そこで出会った行叡居士(ぎょうえいこじ)に授けられた霊木で千手観音像を刻み、滝の上に庵を結んだのがその始まりだという。

 延鎮は、奈良興福寺の僧。

 のちの798年(延暦17年)7月2日(新暦8月17日)、延鎮に帰依したという坂上田村麻呂が自邸を仏殿として寄進し、十一面千手観音を本尊として安置した。

 はじめの寺名は嵯峨天皇から賜ったという北観音寺。

 その後、音羽の滝の清水が人々に知られるようになり清水寺と改められたのだという。

 本尊の千手観音は、「清水型十一面千手観音」と呼ばれ、一般的なものとは姿が異なる。

 秘仏で33年毎に開帳されている。

 「松風や音羽の滝の清水をむすぶ心はすずしかるらん」
 (西国三十三所第十六番)

 御詠歌は、西国三十三所中興の祖といわれる花山法皇が巡礼の際に木の短冊にしたためた和歌なのだという。





境内の建築物・施設等
清水寺

仁王門三重塔清水の舞台阿弥陀堂奥の院音羽の滝子安塔などの清水寺境内の建築物・施設などをご紹介。



清水寺本堂工事の足場
リンクボタン木の足場

 「平成の大改修」で本堂工事にかけられた木の足場





〜清少納言『枕草子』〜

 清少納言は『枕草子』231段「さわがしきもの」の中で、十八日の観音菩薩の縁日に、清水寺へ庶民が集まってくることを騒々しいと表現している。

 「十八日に、清水に籠りあひたる・・・」




〜紫式部『源氏物語』〜

 紫式部『源氏物語』の「夕顔」の巻で、清水寺の方は灯かりがたくさん見えて、参詣者も多いことを描いている。

 「清水の方ぞ光多く見え、人のけはひもしげかりける」


紫式部




〜紫式部と伊勢大輔の贈答歌〜

 1014年(長和3年)正月、仕えていた藤原彰子の病気快復祈願のため清水寺を参った紫式部は、伊勢大輔と出会い歌の贈答をしている。


リンクボタン紫式部の歌〜清水寺で出会った伊勢大輔との贈答歌(伊勢大輔集)〜




〜菅原孝標女の『更級日記』〜

 菅原孝標女は、夢の中で清水寺の僧から前世は清水寺の仏師だと告げられたのだとか。



〜赤染衛門の『赤染衛門集』〜

 赤染衛門が清水寺に参ると橋供養の散華が行われていたのだとか。



〜平安貴族と観音信仰〜

 平安時代には、貴族による観音信仰が高まり、藤原道長をはじめ、宮中に仕えた紫式部清少納言などの女流文学者が盛んに観音霊場を参詣した。


リンクボタン清水詣・石山詣・初瀬詣〜平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺〜




〜毎月参詣していた藤原実資〜

 藤原道長権勢下で政界ナンバー2と言われた藤原実資は、毎月18日に清水寺を参詣し、それ以外にも娘に参詣させていたのだという。


リンクボタン藤原実資の観音信仰と二人の娘〜清水寺・長谷寺・石山寺・六角堂〜




〜後白河法皇の『梁塵秘抄』〜

 後白河法皇は観音菩薩の効験あらたかな寺として清水寺・石山寺(近江国)・長谷寺(大和国)・粉河寺(紀伊国)・西寺(近江国)・六角堂を挙げている。










〜源頼朝の守り本尊〜

 1189年(文治5年)に源頼朝が建てた持仏堂(のちの法華堂)の本尊は聖観音像。

 この像は、頼朝が三歳のときに清水寺から下された二寸銀の聖観音像で、1180年(治承4年)の挙兵の際、髷の中に納めていたものだという(参考:しとどの窟)。 


リンクボタン観音信者だった源頼朝〜守り本尊は清水寺から授かった正(聖)観音像〜

リンクボタン観音浄土へ船出した下河辺行秀〜補陀洛渡海〜 





〜足利尊氏の願文〜

 1336年(建武3年)8月27日、足利尊氏は自筆の願文を清水寺に奉納している。

 内容は、「自分は仏の加護を賜り、今後の果報は弟の直義に与えていただきたい」といったもの。

 その前年、尊氏は、後醍醐天皇の意に逆らって鎌倉に下り、中先代の乱を平定したため、一時、鎌倉の浄光明寺に蟄居したという経緯もある。

 尊氏の願文奉納のきっかけは定かではないが、後醍醐天皇との戦いに勝利した時期の願文のため注目されている。


リンクボタン中先代の乱と足利尊氏と清水寺に奉納した願文

リンクボタン足利尊氏・直義兄弟と鎌倉





〜常盤御前と清水観音〜

 『平治物語』によれば、源義経の母常盤御前は、幼少の頃から清水観音を信仰し、1159年(平治元年)の「平治の乱」で夫源義朝が敗れた後も清水観音へ参り、三人の子(今若・乙若・牛若)の命を助けてくれるよう祈ったという(参考:子安塔(子安観音))。

 常盤の三人の子の命を救ったのは清水観音で、源頼朝の命を救ったのは八幡大菩薩(石清水八幡宮)だったとも伝えている。


清水寺子安塔
リンクボタン子安塔(三重塔)





〜天海の上野寛永寺と清水寺〜

 天台宗の僧で徳川家康・秀忠・家光の側近だった天海は、江戸鎮護のために寛永寺を創建。

 寛永寺には、比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎が次々と建立され、清水寺を模した清水観音堂も建てられた。

 清水観音堂の本尊千手観音は、清水寺の義乗院春海から奉納されたのだと伝えられている。


寛永寺清水観音堂
リンクボタン清水観音堂
(上野寛永寺)





〜清水寺の参道〜

 現在では、松原通(清水道)や五条坂が清水寺の参道として賑わっているが、中世までの参道は、八坂の塔(法観寺)を経て三年坂を上る道だったという。


清水寺三年坂
リンクボタン三年坂(産寧坂)





〜歌の中山〜

 清水寺の子安塔から清閑寺までの山路は「歌の中山」と呼ばれ、幕末には成就院の月照と西郷隆盛の密談が清閑寺の茶室で行われたという。


京都:清閑寺
リンクボタン清閑寺



〜清水寺と清閑寺の領地争い〜

 1213年(建暦3年)、清水寺の僧が清閑寺の領地に一堂を建立したことで、比叡山興福寺の衆徒を巻き込んだ争いになったのだという。

 裁定の結果、土地は清水寺の所領となり、その代わりに、清水寺の前執行・法橋快玄が還俗させられて佐渡国に配流されたのだとか・・・

 リンクボタン清水寺と清閑寺の領地争い




歴史めぐり源頼朝




清水寺
清水寺

京都市東山区清水1−294

市バス206系統・東山通北大路バスターミナル行、100系統清水寺祇園 銀閣寺行で五条坂下車、徒歩10分
京都バス(土・休日のみ運行)18系統・大原行で東山五条下車、徒歩10分



大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。









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