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後鳥羽天皇は、第82代天皇。 父は高倉天皇、母は坊門殖子。 安徳天皇は異母兄。 源実朝の正妻坊門姫(西八条禅院)は従兄妹にあたる。 |
後鳥羽天皇が誕生した1180年(治承4年)は、歴史が動き始めた年。 この年の4月、後白河法皇の第三皇子・以仁王が平家打倒の令旨を発出。 8月から9月にかけて、令旨に応じた伊豆の源頼朝・信濃の木曽義仲・甲斐の武田信義などが挙兵。 一方平清盛は、6月に福原遷都を強行。 不評のため11月に還都したが、12月には平重衡が南都を焼き討ちして東大寺・興福寺を焼き払ったことにより、反平家勢力の増大を招いた。 翌年閏2月4日、平清盛が死去。 平宗盛が跡を継ぐが、1183年(寿永2年)7月25日、木曽義仲に攻められて、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ち。 天皇不在の事態に後白河法皇は、8月20日、高倉天皇の皇子尊成(後鳥羽)に天皇の地位を受け継がせた。 1184年(元暦元年)7月28日即位。 神器なき即位だった。 三種の神器は、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦い後に「鏡」と「玉」は回収されたが、「剣」は海中に沈んだまま発見されなかった。 |
※ | 三種の神器を所持することが正統たる帝の証とされ、皇位継承とともに承継されてきた。 |
赤間神宮 |
安徳天皇陵 |
赤間神宮は壇ノ浦の戦いで平家一門とともに入水した安徳天皇を祀る社。 |
壇ノ浦の戦いと三種の神器と頼朝・範頼・義経 太刀 菊御作〜後鳥羽上皇自作の刀剣〜 |
閑院は後鳥羽天皇の里内裏で、ここで皇位を継承した。 |
1190年(建久元年)1月3日 |
元服の儀。 加冠役は九条兼実。 |
1192年(建久3年)3月13日 |
後白河法皇が崩御。 関白・九条兼実が主導権を握る。 |
1192年(建久3年)7月12日 |
源頼朝を征夷大将軍に任命。 |
1192年(建久3年)8月9日 |
源実朝が誕生。 |
1195年(建久6年)3月 |
東大寺の大仏殿落慶。 上洛した源頼朝が娘大姫の入内運動を開始。 大姫入内の夢 |
1196年(建久7年)11月25日 |
九条兼実が関白を罷免される(建久七年の政変)。 主導権は土御門通親(源通親)に。 |
1198年(建久9年)1月11日 |
土御門天皇に譲位(後鳥羽上皇の第一皇子)。 上皇となって院政を開始。 |
1199年(建久10年)1月13日 |
源頼朝が死去。 |
1199年(建久10年)2月14日 |
源通親の襲撃を企てたとして、後藤基清・中原政経・小野義成が捕えられる(三左衛門事件)。 |
1200年(正治元年)5月7日 |
源頼朝の次女・三幡の病気を診るために丹波時長が鎌倉へ下向。 時長の下向は後鳥羽上皇の命によるもの。 |
1201年(建仁元年)7月 |
和歌所を設置し、『新古今和歌集』編纂を開始。 |
1202年(建仁2年)10月21日 |
源通親が急死。 |
1203年(建仁3年)9月7日 |
源実朝が征夷大将軍に。 実朝の名付け親は後鳥羽上皇。 |
兄源頼家の失脚で将軍となった源実朝 |
1204年(元久元年) |
鴨長明を河合社の禰宜職に推挙したが、賀茂御祖神社(下鴨神社)禰宜の鴨祐兼の反対で実現せず。 |
河合神社 |
下鴨神社 |
1205年(元久2年) |
『新古今和歌集』完成。 源実朝は和歌集が披露される前に、その筆写を取り寄せている。 |
1206年(建永元年) |
明恵に栂尾の寺域を与える。 |
栂尾の高山寺は明恵が中興した寺。 |
号のある勇士ただ今来り入るべし!〜栂尾の明恵に会いに行った畠山重忠〜 |
1207年(承元元年)2月 |
法然の門弟4人を死罪、法然及び親鸞ら門弟7人を流罪とする(承元の法難)。 |
知恩院 |
大谷本廟 |
1207年(承元元年)11月29日 |
最勝四天王院の供養。 障子には46カ所の名所が描かれ、後鳥羽上皇・慈円・藤原定家らの十人の歌人が名所の和歌を詠んだのだという。 |
1208年(承元2年) |
水無瀬離宮(水無瀬殿)で行なわれた蹴鞠で2000回以上の記録を達成し、「この道の長者」と称される。 |
蹴鞠に熱中した鎌倉殿:源頼家 |
1210年(承元4年)11月 |
後鳥羽上皇の意向により土御門から順徳に譲位(後鳥羽上皇の第三皇子)。 |
1215年(建保3年)7月6日 |
後鳥羽上皇の指示で、坊門信清が6月2日に行われた「仙洞の哥合せ(衆議の判)一巻」を源実朝に送る。 |
1218年(建保6年)2月〜4月 |
北条政子が皇族将軍斡旋を相談するため上洛。 |
北条政子の上洛と将軍継嗣問題 |
1218年(建保6年)12月2日 |
源実朝を右大臣に昇任させる。 |
昇進を重ねた源実朝 |
1219年(建保7年)1月27日 |
源実朝が鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式後、甥の公暁に暗殺される。 |
大通寺(万祥山遍照心院)は、後鳥羽上皇の従兄妹で実朝の正妻だった坊門姫(西八条禅院)が実朝の菩提寺として建立した寺院。 |
1219年(建保7年)2月13日 |
北条政子が親王を将軍に迎えるため、二階堂行光を上洛させる。 |
1218年(建保6年)に北条政子が上洛したときに、頼仁親王を次期将軍とする約束が交わされていたと考えられている。 しかし、源実朝が暗殺されたことにより、安定していた朝幕関係に亀裂が生じ、後鳥羽上皇は「いずれ誰かを下向させる」として、幕府の要請を拒絶している。 |
※ | 頼仁親王は、実朝の正妻坊門姫(西八条禅院)の甥。 |
北条政子の上洛と将軍継嗣問題 |
1219年(建保7年)3月 |
後鳥羽上皇が幕府に摂津国の長江・倉橋両荘の地頭職を改補するよう要求。 |
1219年(建保7年)3月15日 |
北条時房が地頭職解任の拒絶を伝えるとともに、親王将軍の東下を要請するため上洛。 しかし、後鳥羽上皇は、地頭職の解任を再要求し、親王の東下を拒絶した。 |
後鳥羽上皇の地頭職改補の要求を拒絶した北条義時 仁科盛遠の所領を没収した北条義時 |
1219年(承久元年)7月13日 |
大内裏の守護を務めていた源頼茂が将軍になろうと企てたため、後鳥羽上皇に追討される。 この合戦による火災で大内裏の仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失した。 |
1219年(承久元年)7月19日 |
左大臣九条道家の子三寅(2歳・のちの頼経)が次期将軍として鎌倉に下向。 |
1219年(承久元年)8月 |
大内裏の再建を始める。 |
1219年(承久元年)10月10日 |
最勝四天王院で名所和歌会を催す。 |
1220年(承久2年) |
近江国の名超寺で北条義時追討のための祈祷。 |
名超寺は天台宗の祈祷道場として創建された古刹。 寺伝によると、後鳥羽上皇は密かに行幸し、北条義時追討のための祈祷を修したのだという。 |
1221年(承久3年)1月27日 |
城南寺(現在の城南宮)で笠懸を行う。 |
この三か月後、後鳥羽上皇は北条義時を追討するため、城南寺の流鏑馬揃えを名目に兵を集めるが、この日の笠懸は、兵がどのくらい集まるのかを確認するためのものだったとも言われる。 後鳥羽上皇は、新日吉社でも度々流鏑馬を催し、院の軍事力を見せつけていた・・・ 『吾妻鏡』によると・・・ 後鳥羽上皇は義時に対して二度にわたって地頭職廃止の院宣を下したが、義時が幕府の根幹を揺るがすとして拒否したため、上皇の怒りは凄まじかったのだという。 |
北条政子の上洛と将軍継嗣問題 |
1221年(承久3年)4月 |
順徳天皇から仲恭天皇に譲位。 |
1221年(承久3年)5月15日 |
北条義時追討の官宣旨・院宣を発する(承久の乱)。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
「菊御作」は、後鳥羽上皇が北条義時追討の挙兵に際して士気を鼓舞するため、自らが鍛えたものと伝えられている。 |
高陽院は、後鳥羽上皇の院御所。 城南寺の流鏑馬揃えを名目に兵を集めるが、兵が集まったのは高陽院。 |
1221年(承久3年)6月15日 |
北条泰時・北条時房らの幕府軍が京市中に入る(朝廷軍大敗)。 |
1221年(承久3年)7月9日 |
隠岐に配流。 |
首謀者の後鳥羽上皇と順徳上皇は、それぞれ隠岐島と佐渡へ流された。 さらに後鳥羽上皇の皇子・六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)も連座して、それぞれ但馬国と備前国豊岡庄児島へ流されている。 討幕計画に反対していた土御門上皇は処罰の対象にはならなかったが、父の後鳥羽上皇が流されたことから、自ら望んで土佐国に流されたのだという。 |
1235年(文暦2年) |
九条道家が北条泰時に後鳥羽と順徳の還都を提案したが受け入れられず。 |
1239年(延応元年)2月22日 |
崩御。 |
隠岐で火葬された遺骨は、上皇がお気に入りだった西蓮(藤原能茂)が摂津国の水無瀬殿に移し、京都大原の勝林院に納骨。 |
その後、上皇の後宮修明門院(藤原重子)の計らいで水無瀬殿の一部を京都の大原に移して法華堂が建立され納骨されたのだという。 |
北条義時が亡くなったのが6月13日、北条政子が亡くなったのが7月11日、大江広元が亡くなったのが6月10日、北条泰時が亡くなったのが6月15日。 いずれの死も、承久の乱で朝廷軍が敗れ、後鳥羽上皇が配流された6月・7月に集中していたことから、後鳥羽上皇の怨霊による祟りではないかという噂が流れたのだとか・・・ また、後鳥羽上皇が崩御した1239年(延応元年)の12月に亡くなった三浦義村、翌年1月に亡くなった北条時房も祟りによって急死したのではないかと噂されたらしい。 義村と時房には、義時追討の院宣が下されていた。 |
鶴岡八幡宮の今宮には、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇が祀られている。 |
後鳥羽上皇の近臣で「合戦の張本」とされた葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能は、それぞれの地で処刑された。 源実朝の正室坊門姫(西八条禅院)の兄坊門忠信も捕らえられたが、北条政子の申し入れにより処刑を免れている。 合戦張本の公卿 |
藍沢五卿神社には、処刑された五人が祀られている。 |
承久の乱後、鎌倉幕府は、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領約3000余箇所は没収。 その多くは、幕府の支配下になかった西国の荘園で、御家人に再分配されて地頭が設置された。 また、朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
鎌倉幕府が朝廷を監視するために設置した六波羅探題の役所は、六波羅蜜寺の境内にあった平清盛邸を改築したものだったのだという。 |
1879年(明治12年)、明治天皇の許可を得て後鳥羽上皇の尊像が安置されていた名超寺の後鳥羽殿が再建され、後鳥羽神社と称されるようになる。 |
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