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平家終焉の地
〜宗盛塚〜


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宗盛塚
宗盛塚


 1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦源義経に敗れて滅亡した平家。

 一門の多くは入水して最期を遂げたが、総大将の平宗盛と子の清宗は捕らえられ、5月16日、鎌倉へ送られた。


 宗盛は都と近江国の境にある逢坂の関で、

 「都をば けふをかぎりのせきみづに またあふさかの かげやうつさむ」

 と詠んでいたのだという。


 そして、6月9日、京へ送還されるため鎌倉を発つが、6月21日、近江国篠原宿で宗盛が、野路口で清宗が斬首されている。

 宗盛父子を護送したのは源義経

 義経は、自らが元服した鏡の宿を血で穢すのを避けて、その先の篠原宿で宗盛を、野路口で清宗を処刑したのだと伝えられている。

 宗盛の処刑を担当したのは平知盛に仕えていた橘公長、清宗の処刑を担当したのは義経の郎党堀景光だった。

 宗盛・清宗父子の首は、6月23日に六条河原に持って行かれ、検非違使の平知康らが受け取り、獄門の前の木に掛けたのだという。



 源義経は、宗盛父子を護送して鎌倉へ凱旋しようとしたが、源頼朝は義経が鎌倉に入ることは許さなかった。

 参考:リンクボタン義経の腰越状

 平清盛の側近だった平盛国も宗盛らとともに鎌倉へ送られたが、盛国は1186年(文治2年)7月25日、鎌倉で没している。

 参考:リンクボタン主馬盛久頸座


【所在地】
滋賀県野洲市大篠原









〜一ノ谷で捕えられた平重衡〜

 宗盛が鎌倉を発った同じ日、一ノ谷で捕えられ鎌倉へ送られていた平重衡も鎌倉を発っている。

 重衡を護送したのは源頼政の次男頼兼。

 重衡は、6月22日、東大寺の衆徒に引き渡され、翌23日、泉大津で斬首されている。

 リンクボタン平重衡と平宗盛


一の谷の戦い
リンクボタン一ノ谷の戦い
平重衡とらわれの松跡
リンクボタン平重衡
とらわれの松跡


屋島の戦い
リンクボタン屋島の戦い
壇ノ浦の戦い
リンクボタン壇ノ浦の戦い





〜鎌倉に残された平家の赤旗〜

補陀洛寺・平家の赤旗
リンクボタン平家の赤旗
(鎌倉:補陀洛寺)

 鎌倉の補陀洛寺には、宗盛が所持していたという平家の赤旗が残され、平清盛が書いたという「九万八千軍神」の文字がある。





源義経
リンクボタン源義経


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鏡の宿
リンクボタン鏡の宿
(源義経元服の地)

滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡1289

JR琵琶湖線「篠原駅」下車徒歩

JR琵琶湖線 「近江八幡駅」からバス「鏡口」下車

JR琵琶湖線 「野洲駅」 からバス「道の駅竜王かがみの里」下車



鏡の宿MAP
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。









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