中世歴史めぐり

源氏ボタルよりともくん『鎌倉殿の13人』2022年大河ドラマ  戌神将二代執権 北条義時

一ノ谷古戦場
〜源平合戦:須磨〜


編集:yoritomo-japan.com







一ノ谷古戦場

 1183年(寿永2年)7月25日、木曽義仲に攻められ、安徳天皇三種の神器を奉じて都落ちし、九州へ落ち延びた平家一門だったが、閏10月には義仲軍を、11月には源行家軍を破り、12月には福原に前線基地を設けて勢力を挽回しつつあった。


〜一ノ谷の戦い〜

 『吾妻鏡』によると・・・

 1184年(寿永3年)2月4日、平家軍は山陽道・山陰道の軍隊数万騎を率いて摂津と播磨の境である一ノ谷に群集し、亡き平清盛の三回忌を修している。

 2月5日、源範頼(5万6千騎)と源義経(2万騎)が摂津国に到達したことを聞いた平家軍は、平資盛をはじめとする7千騎を摂津国三草山の西に布陣させた。

 一方の源氏軍は三草山から東へ三里(12km)ほど離れて布陣。

 義経は、田代信綱土肥実平に相談の上、夜中に資盛を襲撃し、敗走させている。

 2月7日午前4時頃、義経は精兵七十数名の騎馬隊で一ノ谷の裏山(鵯越)に到着。

 午前6時頃、義経の奇襲部隊に属していた熊谷直実、平山季重らが山陽道から一ノ谷の平家の館際を先陣を争いながら襲撃、これに対して平家軍は木戸を開いて平忠光、平景清ら二十三騎が直実らに対抗、直実の子・直家が負傷、季重の家来が討死している。

 同じ頃、源氏の主力部隊・範頼軍が大手(生田口)から攻め寄せ、源平が入り乱れて戦う中、鵯越から義経の奇襲部隊が攻め寄せたことにより、平家軍は敗れ、平宗盛らは屋島へと逃れた。

 この戦いで、平家軍は平重衡が捕えられ、平通盛、平忠度、平敦盛らが討ち取られている。







源平の庭
リンクボタン源平の庭
(須磨寺)

敦盛塚
リンクボタン敦盛塚
(胴塚)
敦盛塚
リンクボタン敦盛塚
(首塚)

平重衡とらわれの松跡
リンクボタン平重衡
とらわれの松跡


須磨寺
リンクボタン須磨寺

生田の森
リンクボタン生田の森



〜畠山重忠伝説〜

畠山重忠像
リンクボタン畠山重忠像
(埼玉県:畠山重忠公史跡公園)

 一ノ谷の鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの際、愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。

 ただ、『吾妻鏡』の記述では、畠山重忠生田の森の戦いに登場するので、義経ではなく、範頼に従っていたのかもしれない・・・。


リンクボタン鵯越の逆落し

リンクボタン後白河法皇の謀略か?〜平宗盛の手紙〜



〜岡部忠澄に討たれた平忠度〜

岡部忠澄墓所
リンクボタン岡部忠澄の墓
(深谷市)
平忠度の五輪塔
リンクボタン平忠度の供養塔
(深谷市)

 一ノ谷の戦いで平家の大将平忠度を討ち取った岡部忠澄は、戦後、忠度を弔うために供養塔を建てたのだと伝えられている。



一ノ谷の次は屋島。
屋島の戦い
リンクボタン屋島の戦い

そして、最終決戦は壇ノ浦。
壇ノ浦の戦い
リンクボタン壇ノ浦の戦い







源義経伝説をめぐる

源義経とあさひ天女

歴史めぐり源頼朝



一ノ谷古戦場
一ノ谷古戦場

神戸市須磨区一ノ谷町

山陽電車「須磨浦公園駅」から



一ノ谷古戦場MAP
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。







源平合戦

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