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1183年(寿永2年)7月25日、木曽義仲に攻められ、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちし、九州へ落ち延びた平家一門だったが、閏10月には義仲軍を、11月には源行家軍を破り、12月には福原に前線基地を設けて勢力を挽回しつつあった。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(寿永3年)2月4日、平家軍は山陽道・山陰道の軍隊数万騎を率いて摂津と播磨の境である一ノ谷に群集し、亡き平清盛の三回忌を修している。 2月5日、源範頼(5万6千騎)と源義経(2万騎)が摂津国に到達したことを聞いた平家軍は、平資盛をはじめとする7千騎を摂津国三草山の西に布陣させた。 一方の源氏軍は三草山から東へ三里(12km)ほど離れて布陣。 義経は、田代信綱と土肥実平に相談の上、夜中に資盛を襲撃し、敗走させている。 2月7日午前4時頃、義経は精兵七十数名の騎馬隊で一ノ谷の裏山(鵯越)に到着。 午前6時頃、義経の奇襲部隊に属していた熊谷直実、平山季重らが山陽道から一ノ谷の平家の館際を先陣を争いながら襲撃、これに対して平家軍は木戸を開いて平忠光、平景清ら二十三騎が直実らに対抗、直実の子・直家が負傷、季重の家来が討死している。 同じ頃、源氏の主力部隊・範頼軍が大手(生田口)から攻め寄せ、源平が入り乱れて戦う中、鵯越から義経の奇襲部隊が攻め寄せたことにより、平家軍は敗れ、平宗盛らは屋島へと逃れた。 この戦いで、平家軍は平重衡が捕えられ、平通盛、平忠度、平経正、平敦盛らが討ち取られている。 |
多井畑厄除八幡宮は、源義経が戦勝を祈願したという社。 |
義経腰掛の松は、多井畑厄除八幡宮で戦勝を祈願した源義経が休息した場所。 ここから義経は平家の拠る一ノ谷へと向かう。 |
須磨寺の源平の庭は、平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭。 |
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熊谷直実に討たれた平敦盛は16歳。 一ノ谷古戦場には胴塚が、須磨寺には首塚が建てられている |
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平重衡とらわれの松は、捕らえられた重衡が腰を掛けて涙を流したという松。 |
須磨寺は、一ノ谷の戦いで義経が陣を敷いたという寺。 |
生田の森は、平家の主力部隊・平知盛、重衡らが源氏の主力部隊・源範頼軍を迎え撃った場所。 |
一ノ谷の鵯越(ひよどりごえ)の逆落しの際、愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。 ただ、『吾妻鏡』の記述では、畠山重忠は生田の森の戦いに登場するので、義経ではなく、範頼に従っていたのかもしれない・・・。 |
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![]() (深谷市) |
![]() (深谷市) |
一ノ谷の戦いで平家の大将平忠度を討ち取った岡部忠澄は、戦後、忠度を弔うために供養塔を建てたのだと伝えられている。 |
平経正は、平清盛の甥で敦盛の兄。 一ノ谷の戦いで討死するが、源義経の奇襲で全軍が総崩れとなる中、弟の敦盛を心配して探しているときに敵に囲まれてしまったのだとか。 弟の敦盛は笛の名手だが、経正は琵琶の名手。 琵琶湖の竹生島を詣でた際、琵琶を奏でると白竜が現われたという伝説で知られる(平経正の竹生島詣)。 |
神戸市須磨区一ノ谷町 山陽電車「須磨浦公園駅」から |
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