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1184年(寿永3年)2月7日、源範頼と源義経が平家一門の拠る一ノ谷を攻撃。 唱歌『青葉の笛』は、この戦いで命を落とした平敦盛と平忠度の最期を歌ったもの。 |
一の谷の 軍破れ 討たれし平家の 公達あわれ 暁寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか |
青葉の笛は、熊谷直実に討たれた平敦盛が身に着けていた竹笛。 この笛は、弘法大師が唐に留学していた時に作ったもので、帰国後に嵯峨天皇に献上されて「青葉の笛」と名付けられ、その後、敦盛の祖父・忠盛が鳥羽院に賜ったのだと伝えられている。 笛の名手だった敦盛は戦場でも演奏していたのだという。 源平合戦ゆかりの須磨寺には、敦盛遺愛の「青葉の笛」が伝えられている。 |
源平の庭は、一の谷の戦いでの平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面を再現した庭。 |
敦盛塚 (胴塚) |
敦盛塚 (首塚) |
更くる夜半に 門を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ 今わの際まで 持ちし箙に 残れるは「花や 今宵」の歌 |
2番は平忠盛の子で、平清盛の異母弟の忠度を歌ったもの。 歌人と優れていた忠度は、平家一門と都落ちした後、都へ戻って師事していた藤原俊成に自らの歌をおさめた巻物を託したのだという。 そして、忠度が討たれたときに箙の中に残っていた歌が 「行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の あるじならまし」 だった。 |
忠度は、武蔵国榛沢郡の岡部忠澄と戦って討死した。 戦後、忠澄は忠度の菩提を弔うため供養塔を建立したのだと伝えられている。 |
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