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かつて竹生島には、「青葉の笛」と呼ばれた龍笛とそれに添えられた小笛(狛笛)が伝来していた。 これらの笛は、1845年(弘化2年)に竹生島から彦根城の井伊直亮(彦根藩十五代藩主)に献上されている。 現在は彦根城博物館が「義経丸」として所蔵。 直亮は、源義経所持と伝わる笛であったことから「義経丸」と名を改めたのだとか。 |
青葉の笛 |
1184年(寿永3年)の一ノ谷の戦いで討死した平敦盛が所持していた龍笛も「青葉の笛」と呼ばれていたのだという。 そして「敦盛」で思い出されるのが・・・ 「人間五十年・・・」という『敦盛』(幸若舞・こうわかまい)を好んだという織田信長。 1573年(天正元年)、信長は竹生島の宝厳寺から「青葉の笛」を借り出している。 宝厳寺に伝来する信長の書状によると・・・ 信長は、「この笛が宝厳寺に寄進された詳しい事情や誰が所持していたものか」を尋ねている。 さらに、静御前の所持という小鼓の胴の蒔絵を見てみたいとも。 宝厳寺は、信長の問いに何と答えたのだろうか??? |
※ | 静御前所持の「小鼓の胴」はMIHO MUSEUM所蔵の「雷雲蒔絵鼓胴」のことらしい。 |
織田信長の竹生島参詣 |
1581年(天正9年)、織田信長は竹生島を参詣。 安土城内の摠見寺に弁財天を勧請したのだと伝えられている。 この時、静御前が所持していたという「小鼓の胴」も見たのかも。。 |
平敦盛所持の笛 |
信長が好んだ「人間五十年・・・」 は、一ノ谷の戦いで義経の奇襲部隊に所属して平敦盛を討ち取った熊谷直実が詠んだもの。 一ノ谷古戦場にある須磨寺には、敦盛遺愛の「青葉の笛」が伝えられているが・・・ 敦盛が所持していたのは「小枝」(さえだ)という名。 当時から「青葉の笛」という別名(通称)があったかどうか??? 信長が舞った幸若舞は、室町時代に成立したもので、もしかすると、その頃に敦盛の笛は「青葉の笛」とされたのかもしれない。 |
一ノ谷の戦いで源義経は須磨寺に陣を敷いたのだという。 |
須磨寺の源平の庭は、平敦盛と熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭。 |
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牛若丸誕生井は、牛若丸(源義経)が誕生した際に産湯として使われたと伝わる井戸。 江戸時代には、ここに竹生島の弁財天が勧請され、牛若丸産湯大弁財天女社が祀られていたのだとか。 |
義経は牛若と呼ばれた幼少期より、新羅三郎義光伝来の「薄墨」という横笛を愛用していたのだと伝えられている。 京都の五条大橋で弁慶と出会った時に吹いていたのも「薄墨」だったのだとか。 |
琵琶湖汽船で、長浜港から35分、今津港から25分 |
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