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葵祭

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葵祭


 葵祭(あおいまつり)は、賀茂神社の例祭。

 賀茂神社(かもじんじゃ)とは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称。

 古くは「賀茂祭」(かものまつり)と称され、石清水八幡宮の例祭(石清水祭)・春日大社の例祭(春日祭)とともに三大勅祭の一つです。

 また、八坂神社祇園祭平安神宮時代祭とともに京都三大祭の一つにも数えられます。

 紫式部『源氏物語』葵の巻〜にも描かれました。

 祭儀は、宮中の儀・路頭の儀・社頭の儀からなりますが、現在は宮中の儀は行われていないようです。



主な前儀

5月3日 流鏑馬神事(下鴨神社)

5月4日 斎王代御禊の儀
(2023年は上賀茂神社)

5月5日 歩射神事(下鴨神社)

5月5日 賀茂競馬(上賀茂神社)

5月12日 御蔭祭(下鴨神社)


路頭の儀
5月15日

 総勢500余名、馬36頭、牛4頭、牛車2基、輿1台の風雅な王朝行列。

 10:30に京都御所を出発、下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう。

 雨天の時は翌日に順延。


社頭の儀

 行列が下鴨神社・上賀茂神社に到着した際に、それぞれの社頭で行われる儀式。

 醍醐寺三宝院の「葵の間」の襖には、下鴨神社から上賀茂神社へと向かう葵祭の行列が描かれています。


賀茂神社 二葉葵
御神紋の二葉葵
(賀茂葵)


スケジュール

京都御所出発10:30→丸太町通→河原町通 →下鴨神社到着11:40

路頭の儀・出発14:20→下鴨本通→洛北高校前14:40→北大路通→北大路橋14:55→賀茂川堤→上賀茂神社到着15:30



葵祭





〜五穀豊穣を祈願する王朝行事〜

 『日本書記』の欽明天皇の巻には、567年(欽明天皇28年)は、洪水によって五穀が実らず、飢えによる「人食い」があったこと記されているようです。

 伝説によると・・・

 賀茂の大神の崇敬者だった卜部伊吉若日子の占いでは、賀茂の神々の祟りということでした。

 その祟りを鎮めるために勅命が下り、4月中酉の日に、卜部伊吉若日子を勅使として、馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をするという大規模な祭礼が行われました。

 この祭礼によって、風雨はおさまり、五穀も豊かに実り、国民も安泰になったのだといいます。

 これが葵祭(賀茂祭)の起源だということです。

 819年(弘仁10年)には、朝廷の律令制度として、最も重要な恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になりました。



〜中断と再興・復活〜

 平安時代からの祭事も、1467年(応仁元年)から約100年続いた応仁の乱によって中断してしまいます。

 再興されたのは1694年(元禄7年)。

 再興後は、内裏宸殿や牛車、衣冠などを「葵の葉」で飾るようになったことから「葵祭」と呼ばれるようになったのだといいます。

 その後、幕末の混乱期、太平洋戦争によって中断されてしまいますが、1953年(昭和28年)に復活しました。



玉依媛命と賀茂別雷大神〜賀茂神社由来物語と葵祭〜









葵祭


賀茂神社の斎王(斎院)

 斎王は、賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)。

 嵯峨天皇(桓武天皇の第二皇子)が即位した翌年の810年(弘仁元年)、平城天皇(桓武天皇の第一皇子)が復位を試みて対立(「薬子の変」)。

 嵯峨天皇は、賀茂大神に「我が方に利あらば皇女を捧げる」と祈願し、争いに勝利した後、約束のとおりに第八皇女の有智子内親王(うちこないしんのう)を捧げます。

 それが賀茂神社の斎王のはじまりで、1212年(建暦2年)に後鳥羽天皇の皇女・第35代礼子内親王(いやこないしんのう)が退下するまでの約400年間続きました。

 村上天皇の第十皇女・選子内親王は、歴代最長の期間を斎王であり続け、大斎院と称されました。

 斎王が奉仕していた時代の賀茂祭(葵祭)は、斎王が主宰していたのだといいます。

 現在の葵祭では、一般市民から選ばれた斎王代が祭に参加しています(1956年(昭和31年)から)。





賀茂斎院跡
リンクボタン賀茂斎院跡の碑
(檪谷七野神社)


 斎王が住まいした賀茂斎院(紫野斎院)は、1212年(建暦2年)に第35代・礼子内親王が退下した後、承久の乱の混乱などもあって廃絶したそうです。

 近年では、檪谷七野神社周辺の一画にあったと推定されています。



今宮神社若宮社
リンクボタン今宮神社若宮社

 今宮神社にある斎王を祀る社。

 今宮神社も賀茂斎院跡の伝承地の一つ。



賀茂斎院御歴代斎王神霊社
リンクボタン歴代斎王神霊社

 2018年(平成30年)、下鴨神社糺の森には、歴代斎王を祀る賀茂斎院歴代斎王神霊社が再興された。



唐崎神社
リンクボタン唐崎神社
(大津市)

 唐崎神社日吉大社の摂社。

 藤原道綱の母の『蜻蛉日記』・藤原実資の『小右記』・紫式部『源氏物語』にも登場する祓いの霊場。

 斎王が退下したときに参拝した社ともいわれている。



下鴨神社・唐崎社紅葉橋遙拝所
リンクボタン唐崎社紅葉橋遥拝所

 かつて、下鴨神社糺の森には斎王が退下した際にお祓いをした唐崎社があった。

 唐崎社は井上社に合祀されている。





〜葵祭で供えられていた申餅〜

下鴨神社の申餅
リンクボタン申餅

 かつての葵祭では、申の日に申餅を供え、無病息災を祈願したのだといいます。



〜下鴨神社発祥の団子〜

みたらし団子
リンクボタンみたらし団子

 「みたらし団子」は、下鴨神社御手洗池の底から湧き出る水泡をかたどったのだといわれる。

 御手洗池は、葵祭で斎王代の禊が行われる所。









上賀茂神社
リンクボタン賀茂別雷神社
(上賀茂神社)
下鴨神社
リンクボタン賀茂御祖神社
(下鴨神社)


 賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)は、古くより朝廷から崇敬され、794年(延暦13年)の平安遷都後は山城国の一之宮となり、王城鎮護の神として一層崇敬されるようになります。

 802年(大同2年)には正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされました。

 石清水八幡宮の例祭(石清水祭)・春日大社の例祭(春日祭)とともに三大勅祭の一つです。



〜紫式部の歌〜

桜紫式部歌碑〜上賀茂神社の片岡社で詠んだ「ほととぎすの歌」〜

桜紫式部の歌〜賀茂祭の日まで散り残っていた山桜〜





〜下鴨神社と関係が深い堅田の社〜

伊豆神社
リンクボタン伊豆神社
(大津市)
神田神社
リンクボタン神田神社
(大津市)


 大津市堅田の浮御堂近くにある伊豆神社神田神社は、賀茂御祖神社(下鴨神社)が勧請された社。

 堅田は下鴨神社の御厨で、下鴨神社へ琵琶湖の鮮魚を献上することで諸役が免除されていたのだという。

 葵祭前日(5月14日)には、両社で下鴨神社へ鮒を献上する「献饌供御人行列」が行われる。





埒が明く・・・埒が明かない・・・


 「埒が明く」「埒が明かない」という言葉は、上賀茂神社の競馬会から生まれた・・・





賀茂祭に供奉した大江広元


 『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府政所の別当だった大江広元は、後白河法皇法住寺殿を修繕するため在京した時、賀茂祭に供奉したらしい。





四代将軍九条頼経 賀茂祭を見物する!


 『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府四代将軍の九条頼経は、上洛した際、賀茂祭を見物したらしい。





三つ葉葵


 1610年(慶長15年)、上賀茂神社徳川家康に葵を進上。

 以来、毎年将軍家に葵をおさめる「葵使」(あおいつかい・あおいのつかい)が駿府城に派遣されていたのだといいます。

 賀茂祭は、応仁の乱から途絶えていましたが、1694年(元禄7年)に徳川幕府の援助を得て再興されます。

 徳川家が葵紋を使用していたことから「葵祭」と呼ばれるようになったのだという説も・・・





〜伊勢神宮の斎王〜

野宮神社
リンクボタン野宮神社

 嵯峨の野宮神社は、伊勢神宮に仕える斎王が、伊勢神宮に赴く前に心身を清めた「野宮」があった地に鎮座します。

 紫式部『源氏物語』〜賢木の巻〜にも描かれました。

 野宮神社で秋に行われる「斎王群行」は、斎王が伊勢神宮へと向かう行列を再現したもの。





〜『源氏物語』葵の巻〜

平安京一条大路跡
リンクボタン平安京一条大路跡

 一条大路は、紫式部『源氏物語』〜葵の巻〜にも登場する平安京の北限の大路。

 賀茂祭見物に出かけた光源氏の正妻・葵の上と愛人の六条御息所車争いが描かれている。



『源氏物語』葵の巻〜葵の上と六条御息所の車争い〜





〜賀茂祭の還さ、いとをかし〜

賀茂祭の還御の行列「いとをかし」


 清少納言は『枕草子』に、斎王が上賀茂神社から紫野の斎院に帰る行列は、本当に素晴らしいと記しています。





〜落馬した清少納言の父〜

賀茂祭で落馬した清少納言の父清原元輔


 清少納言の父清原元輔は、奉幣使として加わった賀茂祭で落馬。

 冠が滑り落ちて禿げ頭を晒してしまったのだとか。





〜賀茂祭の連歌対決〜

賀茂祭の連歌対決


 藤原道綱母は、賀茂祭見物の際、藤原時姫に連歌対決を挑んだ・・・










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