中世歴史めぐり

徳川氏発祥の地 松平氏発祥の地
家康生誕地 東照宮

徳川家康



駿 府 城
〜徳川家康隠居の城〜


編集:yoritomo-japan.com








駿府城公園


 駿府城(すんぷじょう)は、1585年(天正13年)に徳川家康が築いた城。

 駿河国の駿府は、国府が置かれた地で「駿府」の名称は「駿河府中」の略。





〜今川氏の人質だった家康〜

 室町時代、駿府には駿河国・遠江国を領した今川氏が今川館を築き、領国支配の拠点としていたのだという。

 家康は、幼少期に今川氏の人質として駿府に送られたが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破ると、誕生地の岡崎城に帰還し、今川氏から独立している。 


竹千代と今川義元の銅像
竹千代と今川義元
(静岡駅前)



小梳神社
リンクボタン小梳神社

 小梳神社は、今川氏の人質となった竹千代が今川義元に対面する前に祈願したという社。



臨済寺
リンクボタン臨済寺

 竹千代は臨済寺に預けられたのだという。


清見寺
リンクボタン清見寺

 そして、臨済寺清見寺に住持した太原雪斎に教育を受けた。


リンクボタン人質となった竹千代〜織田・今川の人質だった徳川家康〜



静岡浅間神社
リンクボタン静岡浅間神社

 1555年(天文24年)3月、竹千代は今川義元を烏帽子親として元服。

 元服式は静岡浅間神社で行われた。





〜今川から武田・徳川・豊臣〜

 1568年(永禄11年)、甲斐国の武田信玄による駿河侵攻により今川館は焼失し、駿河国は武田氏の領地となったが・・・

 1582年(天正10年)、武田氏が織田・徳川の連合軍に敗れて滅亡すると、駿河国は家康の領土となった(甲州征伐)。

 家康は駿府城を築いて浜松城から移るが・・・

 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐後、関東に移封され、駿府城には秀吉に仕えた中村一氏が入城している。 


今川館が駿府城と同じ場所にあったかどうかは不明だが、近年の調査では駿府城跡から今川時代の遺跡が発見されているのだという。



武田信玄の駿河侵攻と徳川家康の遠江侵攻



リンクボタン掛川城を開城した後の今川氏真〜徳川家康の援助を受けた生涯〜




徳川家康像
徳川家康像
(静岡駅前)



西郷局の墓
リンクボタン西郷局の墓
(宝台院)

 西郷局は、家康の側室で、のちに二代将軍となる秀忠の生母。

 1589年(天正17年)5月19日、駿府城で死去し、宝台院に葬られた。


江戸城
リンクボタン江戸城

 関東に移封された家康は、小田原城には入らず、江戸城に入っている。



小田原征伐









〜駿府に戻った家康〜

  1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに勝利した家康は、1603年(慶長8年)、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開いた。

 1605年(慶長10年)には将軍職を秀忠に譲るが、実権は握り続け、翌年には駿府を拠点として大御所政治を執った。

 側室の阿茶局も駿府に連れて行ったのだという。


駿府城公園徳川家康像
徳川家康像
(駿府城公園)


 家康が駿府城に戻ると、「天下普請」(てんかぶしん)として全国の大名に大修築工事が命じられ、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀が造営され、本丸の北西には五重七階といわれる天守が配置された。

 城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られたのだという。


駿府城


駿府城
天守台発掘調査現場

 天守台跡の発掘調査の結果、天守台は西辺約68m×北辺約61mであることが確認され、江戸城の天守台より広く、日本一の規模であることが判明している。

 発掘調査では、今川時代の遺跡も発見されているのだという。 



密柑
家康お手植えの蜜柑

 家康像の近くに植えられている蜜柑(みかん)は、家康お手植えと伝わり、県の天然記念物。

 家康の嫡男信康築山殿の子)の廟所がある浜松市の清瀧寺には、この木から増やした苗が植えられ、こちらも県の天然記念物に指定されている。





三つ葉葵


 1610年(慶長15年)、上賀茂神社家康に葵を進上。

 以来、毎年将軍家に葵をおさめる「葵使」(あおいつかい・あおいのつかい)が駿府城に派遣されていたのだという。

 上賀茂神社下鴨神社の例祭・賀茂祭(葵祭)は、応仁の乱から途絶えていたが、1694年(元禄7年)に徳川幕府の援助を得て再興。

 徳川家が葵紋を使用していたことから「葵祭」と呼ばれるようになったのだという説も・・・





〜久能山に葬られた家康〜

 晩年を駿府城で過ごした家康は、1616年(元和2年)4月17日に死去。

 遺骸はその日のうちに久能山に葬られた。

 家康死後の駿府城は、孫の忠長(崇源院の子)が城主となったが、忠長が改易されると城代が管理。

 1635年(寛永12年)の火災で天守をはじめとする建物が焼失し、櫓・門などは再建されたが天守は再建されなかった。

 それ以後も縮小していき、1868年(慶応4年)、最後の将軍徳川慶喜の養子徳川家達が駿府藩主として入城したが、翌年、廃城となった。



久能山東照宮
リンクボタン久能山東照宮









〜以心崇伝と方広寺鐘銘事件〜

 以心崇伝(いしんすうでん)は、南禅寺塔頭金地院を再興した僧で金地院崇伝とも呼ばれた家康の側近。

 家康の政治顧問だった相国寺の西笑承兌(さいしょうじょうたい)が亡くなったことで駿府に招かれたのだという。

 1614年(慶長19年)、家康方広寺梵鐘の銘文を問題化させて大坂の陣の口実を作ったと言われるが、それを画策したのが崇伝だったとも言われている。


金地院
リンクボタン金地院
(京都)
金地院東照宮
リンクボタン金地院東照宮

 金地院崇伝が住した寺で、駿府城内や江戸城内にも金地院が建立された。

 金地院東照宮は、久能山東照宮日光東照宮とともに家康の遺言によって崇伝が建立した。


方広寺梵鐘
リンクボタン方広寺梵鐘
(京都)

 方広寺は、豊臣秀吉が東大寺大仏に代わる大仏を安置するために創建した寺。

 梵鐘は豊臣秀頼によって鋳造されたが、家康は銘文の「国家安康」と「君臣豊楽」の文字を問題化させて大坂の陣の口実としたのだという。





〜駿河郡の予定だった隠居所〜

柿田川
リンクボタン柿田川公園
(駿東郡:泉頭城跡)

 家康は、隠居所を駿府城ではなく駿河郡(駿東郡)にあった泉頭城にする計画を立てていたのだとか・・・









駿府城公園
駿府城公園

静岡市葵区駿府城公園1−1

JR静岡駅から徒歩15分
静岡鉄道新静岡駅から徒歩12分



駿府城跡・久能山東照宮
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