中世歴史めぐり

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家康生誕地 東照宮

徳川家康



甲 州 征 伐
武田勝頼の最期


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武田勝頼像
武田勝頼像
(甲斐大和駅前)


 1575年(天正3年)5月、長篠の戦いで武田勝頼を破った織田信長・徳川家康の連合軍は、1582年(天正10年)2月、信濃国木曽谷の木曽義昌が信長の調略にのって武田氏を離反したことをきっかけに甲斐侵攻を開始(甲州征伐)。

 勝頼は、織田・徳川連合軍の侵攻に備えて、甲府の躑躅ヶ崎館から新府城に移っていたが、3月2日には防衛拠点だった信濃国の高遠城が落城。

 その前日3月1日には、武田氏一門の穴山梅雪徳川家康に通じて武田氏を離反。

 諏訪まで出陣していた勝頼は、3月2日、新府城に戻って火を放ち、小山田信茂の岩殿城(岩殿山城)へ向かう。

 3月7日に甲府に入った織田信忠は、武田信友(信玄の異母弟)・諏訪頼豊(諏訪氏当主)・武田信廉(信玄の同母弟)など、勝頼の関係者を探し出して処刑。

 3月10日には一条信龍(信玄の異母弟)が徳川軍と戦って討死している。


勝頼家臣の処刑・討死については諸説ある。



新府城跡
リンクボタン新府城跡
(韮崎市)

 1581年(天正9年)、勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館から自らが築いた新府城に本拠を移した。

 未完の城だったといわれているが、武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭だったらしい。





〜小山田信茂の離反〜

 新府城を放棄した勝頼は、郡内(都留郡)に向かって逃れ、鶴瀬(現在の甲州市)で、岩殿城(大月市)の小山田信茂の迎えを待っていたのだというが・・・

 信茂が離反して郡内への入口(笹子峠とされる)を封鎖。

 進路を阻まれた勝頼は天目山を目指すが、山麓の田野で信長の重臣・滝川一益と戦うことになる。



〜天目山の戦い〜

 天目山に向かった勝頼に従っていたのは、土屋昌恒・小宮山友晴ら43人。

 3月11日夜明け、滝川一益軍と対峙するが、相手の兵は4千。

 土屋昌恒は「片手千人斬り」の活躍を見せたのだという。 



鳥居畑古戦場碑
鳥居畑古戦場碑
(勝頼最後の合戦場)


 僅かな兵で織田軍を撃退した勝頼は、最期を悟り、松の根元に「御旗」(日の丸)を立て、嫡子の信勝に「楯無」(たてなし・鎧)を着せて元服の儀を執り行ったのだという。

 「御旗」と「楯無」は、武田氏の祖・新羅三郎義光伝来の重宝。

 元服の儀を終えると、勝頼と信勝、そして勝頼の継室・北条夫人が自害。

 甲斐武田氏の嫡流は滅亡した。



御旗楯無 御照覧あれ









岩殿山城
リンクボタン岩殿山
(大月市)

 勝頼が逃れようとした岩殿山城は、小山田信茂の居城。

 小山田氏は、武蔵国の秩父を本拠とした秩父氏の流れを汲む氏族で、秩父重弘の子有重を祖とする。

 源頼朝に仕え「鎌倉武士の鑑」と呼ばれた畠山重忠は、有重の甥にあたる。

 勝頼を裏切った小山田信茂は、主君への不忠を咎められ、同行していた武田信堯(信玄の甥)とともに甲斐善光寺で処刑されたのだと伝えられている。





景徳院山門
リンクボタン景徳院
(甲州市)

 景徳院は、武田勝頼終焉の地・田野に徳川家康が勝頼と家臣らの菩提を弔うために建立させた寺。



雲峰寺
リンクボタン雲峰寺
(甲州市)
菅田天神社
リンクボタン菅田天神社
(甲州市)

 勝頼と信勝が自害した後、「御旗」は家臣が山伝いに運んで雲峰寺に託し、「楯無」は向嶽寺の庭に埋められたが、のちに徳川家康が掘り出させて、菅田天神社に納められたのだという。

 雲峰寺には、「御旗」の他に武田信玄や勝頼が用いた「孫子の旗」「諏訪神号旗」、「馬標旗」が所蔵されている。





〜焼き討ちされた信玄の菩提寺〜

恵林寺三門
リンクボタン恵林寺

 武田信玄の菩提寺・恵林寺では、織田信長の命により、信玄の師だった快川紹喜をはじめとする100余名の僧が三門に封じ込められ、焼き討ちされたのだという。

 武田氏の軍旗「風林火山」は、快川に書かせて作らせたものと伝えられる。

 のちに徳川家康が再建。



リンクボタン恵林寺焼き討ち〜信長公記が伝える甲州征伐〜



風林火山


諏訪神号旗


武田信玄訓言









〜各地を転々とした善光寺如来〜

甲斐善光寺金堂
リンクボタン甲斐善光寺

 甲斐善光寺は、武田信玄信濃善光寺善光寺如来を移すために創建した寺。

 甲州征伐後、善光寺如来は織田信長の命により美濃国の岐阜城下に移されるが、間もなく信長は本能寺で横死(本能寺の変)。

 その後、尾張国の清州城下、三河国の吉田城下、遠江国の浜松城下を経て、甲斐善光寺に戻されるが・・・

 豊臣秀吉によって京都の方広寺に移され、間もなく秀吉が病に倒れると、信濃善光寺に戻されたのだという。

 秀吉は善光寺如来が信濃善光寺に戻された翌日に亡くなっている・・・





〜法泉寺に葬られた勝頼の歯髪〜

法泉寺:武田勝頼の墓
リンクボタン武田勝頼の墓
(甲府市:法泉寺)

 法泉寺は、武田氏七代当主・武田信武と二十代当主・武田勝頼(信玄の四男)の菩提寺。

 武田勝頼の墓には、勝頼の歯髪が葬られているのだという。

 リンクボタン武田勝頼の首級牛蒡の伝説





〜本能寺の変と天正壬午の乱〜

 甲州征伐で甲斐国を支配した織田信長は、徳川家康の案内で富士山を見物しながら、4月21日、安土城に帰還。


リンクボタン富士山見物をしながら帰還した織田信長〜甲州征伐〜


 5月29日、羽柴秀吉の援軍のため京都の本能寺に入るが、6月2日、明智光秀の謀反により横死(本能寺の変)。

 この時、勝頼を裏切った穴山梅雪は、徳川家康とともに堺遊覧中だったが、畿内脱出の途中で襲われて最期を遂げている。

 一方、家康は伊賀越え岡崎城に辿り着き、その後、織田の遺領をめぐる天正壬午の乱を鎮めて甲斐国を領することとなる。



本能寺の変


リンクボタン安土饗応〜織田信長・徳川家康・明智光秀と本能寺の変〜


伊賀越え


天正壬午の乱


小牧・長久手の戦い





〜甲府城〜

甲府城
リンクボタン甲府城

 武田氏三代の城だった躑躅ヶ崎館は、甲州征伐で武田氏が滅亡し、天正壬午の乱後、甲斐国が徳川氏の領地になると・・・

 仮御殿が造営されて家康の家臣・平岩親吉が入城。

 信玄誕生の寺・積翠寺がある要害山城にも城番が配置された。

 家康が関東移封となった後も豊臣氏の家臣・加藤光泰によって修築されていたが・・・

 関ヶ原の戦い後、甲府城の築城が本格化すると躑躅ヶ崎館と要害山城は廃城となった。





〜武田氏の断絶〜

 甲州征伐で武田勝頼が滅んだことで武田の嫡流は滅亡するが、家康は穴山梅雪の嫡男・勝千代(武田信治)を武田氏当主とした。

 勝千代は武田信玄の外孫。

 しかし、1587年(天正15年)に勝千代が死去したため、側室の於都摩の方が産んだ万千代(武田信吉)に武田氏を継承させている。

 於都摩の方は梅雪の養女。

 ただ、1603年(慶長8年)、万千代が死去したことで武田氏は断絶した。


リンクボタン下山殿・おつまの方〜武田信吉を産んだ徳川家康の側室〜









武田信玄


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