中世歴史めぐり

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徳川家康



長篠・設楽原の戦い
織田・徳川 対 武田勝頼


編集:yoritomo-japan.com








長篠・設楽原古戦場
長篠・設楽原古戦場
(新城市)


 1572年(元亀3年)、甲斐国の武田信玄が西上作戦を開始し、遠江国の三方ヶ原徳川家康を破り三河国へ侵攻するが・・・

 翌年、信玄は病に倒れ、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退。

 途中の信濃国伊那谷で死去。

 信玄の跡を継いだ武田勝頼は、1574年(天正2年)、遠江国の高天神城を攻略し、翌1575年(天正3年)4月には1万5千の兵を率いて三河国の長篠城を包囲した。

 知らせを受けた家康は、織田信長に援軍を要請。

 岐阜城を発った信長は、5月14日、岡崎に至り、家康とともに長篠城の救援に向かう。

 5月21日、織田・徳川連合軍は、設楽原に馬防柵を築いて布陣。

 信長は、この戦いで鉄砲を主戦力として用いることを決めていたのだという。

 一方、武田軍も設楽原へ移動し、合戦が始まった。

 武田軍は騎馬隊を中心に攻撃をしかけるが・・・

 馬防柵に阻まれた上、鉄砲隊に攻撃され、山県昌景・土屋昌次・馬場信房などを失い信濃国の高遠城へ撤退した。




長篠・設楽原古戦場 馬防柵
リンクボタン馬防柵

 織田・徳川連合軍は、三重の土塁と馬防柵を築いて武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術をとった。


リンクボタン設楽原の戦い〜大量の火縄銃(鉄砲)を使用した織田信長〜

リンクボタン設楽原の戦い〜信長に鳶ヶ巣山砦の奇襲を進言した酒井忠次〜



信玄塚
リンクボタン信玄塚

 信玄塚は、長篠・設楽原の戦いでの戦死者が葬られたという塚。

 大塚と小塚があって、大塚に武田軍の戦死者、小塚に織田・徳川軍の戦死者が弔われているのだという。



勝楽寺
リンクボタン勝楽寺

 毎年、8月15日に信玄塚で行われる「火おんどり」は、勝楽寺第三世の玄賀和尚が行った大施餓鬼がルーツといわれている。





〜重臣を失った武田勝頼〜

 勝頼は、信玄の時代からの重臣の山県昌景・馬場信春・内藤昌豊(昌秀)らに撤退するよう進言されていたのだという。

 しかし、決戦することに決定。

 その結果、山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・三枝昌貞・原昌胤・原盛胤・真田信綱・真田昌輝・土屋昌続・土屋直規・安中景繁・望月信永・米倉丹後守などを失った。

 長篠の戦いの大敗により、武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10年)、織田・徳川連合軍による甲州征伐で勝頼は滅亡することとなる。



甲州征伐





〜長篠城主・奥平貞昌〜

奥平仙千代の墓
リンクボタン奥平仙千代の墓
(鳳来寺参道入口)

 長篠城主の奥平貞昌(信昌)は、1573年(元亀4年)の武田信玄の三河侵攻まで武田氏に属し、妻の於ふう・弟の仙千代丸・奥平勝次の次男の虎之介を人質として武田氏に差し出していた。

 しかし、信玄の死去後に徳川家康の家臣となったため3人の人質は処刑され、鳳来寺山麗に晒されたのだという。


リンクボタン亀姫・加納御前〜奥平信昌の正室となった徳川家康の長女〜





〜鳥居強右衛門〜

鳥居強右衛門


 武田勝頼に包囲されて落城寸前だった長篠城を救ったのは、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という奥平家の家臣(陪臣)だった。

 強右衛門が命がけで織田・徳川の援軍がくることを知らせたおかげで、城内の兵たちの士気は上がり、落城寸前だった城を守り抜くことができたのだという。


リンクボタン鳥居強右衛門〜命を懸けて絶体絶命の長篠城を救った足軽〜









〜三方ヶ原の戦いと長篠城〜

三方ヶ原古戦場
リンクボタン三方ヶ原古戦場碑
(浜松市)

 1572年(元亀3年)、浜松城を素通りして軍を進めた信玄家康は追撃。

 三方ヶ原で大敗したが、翌年、信玄が死去すると長篠城を開城させ、奥平貞昌を城主とした。



長篠城
リンクボタン長篠城址
(新城市)

 長篠城は、徳川家康武田信玄が争奪戦を繰り広げた城。

 1572年(元亀3年)、 三方ヶ原家康を破った信玄は、翌年、病に倒れ、長篠城で療養した後、甲斐国へ撤退している。





〜岡崎城を制圧する予定だった勝頼〜

岡崎城
リンクボタン岡崎城
(岡崎市)

 1575年(天正3年)、三河国に侵攻した武田勝頼は、松平信康のもとで町奉行を務めていた大岡弥四郎の手引きで、岡崎城を制圧する予定だったのだという。

 しかし、大岡弥四郎の謀反計画が発覚してしまったため、長篠城を奪還する作戦に切り替えたのだとか。


リンクボタン大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜

リンクボタン築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜

リンクボタン松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜





〜水野信元の誅殺〜

 長篠の戦い後、家康の母於大の方の兄水野信元が武田勝頼に内通していたとして誅殺されている。


リンクボタン水野信元〜徳川家康に誅殺された於大の方の兄〜





御旗楯無 御照覧あれ


 長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗した武田勝頼。

 家臣たちは撤退を主張していたようだが、勝頼が「御旗・楯無」に誓ってしまったことから、従わざるを得なかったのだとか・・・

 「御旗」(日の丸)と「楯無」(鎧)は、いずれも甲斐武田氏の祖・新羅三郎義光伝来のもの。

 「御旗」は雲峰寺に、「楯無」は菅田天神社に残されている。



風林火山


諏訪神号旗


武田信玄訓言





武田勝頼像
武田勝頼像
(甲斐大和駅前)

 長篠の戦い後、武田勝頼は遠江の二俣城や高天神城を失い、家臣団の分裂もあって父信玄の残した領国を失っていった。

 1581年(天正9年)には、織田・徳川軍を迎え撃つため、甲府の躑躅ヶ崎館から新府城に移ったが、翌年の甲州征伐で天目山麓の田野で滅亡した。



新府城跡
リンクボタン新府城跡
(韮崎市)

 1581年(天正9年)、勝頼が築いた新府城は未完の城だったといわれているが、武田家の甲州流築城技術の集大成の城郭だったらしい。



景徳院山門
リンクボタン景徳院
(甲州市)

 景徳院は、武田勝頼終焉の地・田野に徳川家康が勝頼と家臣らの菩提を弔うため建立させた寺。



甲州征伐









長篠・設楽原古戦場
長篠・設楽原古戦場

愛知県新城市長篠

JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩10分



長篠城・長篠古戦場
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