中世歴史めぐり

徳川氏発祥の地 松平氏発祥の地
家康生誕地 東照宮

徳川家康



長篠城址
〜徳川家康と武田信玄〜


編集:yoritomo-japan.com








長篠城


 長篠城(ながしのじょう)は、1508年(永正5年)、駿河の今川氏に従っていた菅沼元成が築城。

 以後、長篠菅沼氏の居城となる。

 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで今川義元が敗れ、松平元康(のちの徳川家康)が今川氏から独立して岡崎城に入り・・・

 1566年(永禄9年)、家康が三河の国守となると、長篠菅沼氏は家康に従うようになるが・・・

 1571年(元亀2年)、甲斐の武田信玄に従っていた遠江の天野景貫に攻められ、城主だった菅沼正貞が降伏。

 菅沼氏は武田氏に従うことに。

 1572年(元亀3年)、信玄が三方ヶ原の戦いで家康を破り三河に侵攻。

 しかし、翌年、信玄が病に倒れ、長篠城で療養後、武田軍が甲斐へ撤退(信玄は途中で死去)すると・・・

 間もなく家康に攻められ開城。

 家康は奥平貞昌を城主として武田氏の侵攻に備えて城を拡張したが・・・

 1575年(天正3年)、信玄の跡を継いだ武田勝頼が長篠城を攻め、長篠・設楽原の戦いが始まると、長篠城は大きく損壊。

 翌年、奥平貞昌が新城城を築いたことにより廃城となった。



長篠城


長篠城









三方ヶ原古戦場
リンクボタン三方ヶ原古戦場碑
(浜松市)

 1572年(元亀3年)、浜松城を素通りして軍を進めた信玄家康は追撃。

 三方ヶ原で大敗を喫したが、信玄の死後、長篠城を開城させ、奥平貞昌を城主とした。



長篠・設楽原古戦場 馬防柵
リンクボタン長篠・設楽原古戦場
(新城市)

 1575年(天正3年)、武田勝頼が長篠城を包囲すると、家康は織田信長に援軍を要請。

 鉄砲を主戦力とした織田・徳川連合軍は、設楽原の戦いで勝頼を信濃国の高遠城へ撤退させた。



勝楽寺
リンクボタン勝楽寺
(新城市)

 勝楽寺第三世の玄賀和尚は、設楽原の戦いの戦没者のために大施餓鬼を行った。





〜奥平貞昌と3人の人質〜

 奥平貞昌は、奥三河の国人・奥平貞能の子。

 1575年(天正3年)2月、長篠城主となったのだが・・・

 1573年(元亀4年)の武田信玄の三河侵攻まで武田氏に属し、
妻の於ふう・弟の仙千代丸・奥平勝次の次男の虎之介を人質として武田氏に差し出していた。

 しかし、信玄が死去すると、徳川家康の家臣となったため3人の人質は処刑され、鳳来寺山麗に晒されたのだという。


奥平仙千代の墓
リンクボタン奥平仙千代の墓
(鳳来寺参道入口)


リンクボタン亀姫・加納御前〜奥平信昌の正室となった徳川家康の長女〜





〜岡崎城を制圧する予定だった勝頼〜

岡崎城
リンクボタン岡崎城
(岡崎市)

 武田勝頼は当初、松平信康の家臣・大岡弥四郎を調略し、岡崎城を制圧する予定だったのだという。

 しかし、大岡弥四郎の謀反計画が発覚してしまったため、長篠城を奪還する作戦に切り替えたのだとか。


リンクボタン大岡弥四郎の謀反〜岡崎城を制圧する予定だった武田勝頼〜

リンクボタン松平信康〜切腹させられた徳川家康の嫡男〜

リンクボタン築山殿〜正室を殺害し嫡男信康を自害させた徳川家康〜





〜鳥居強右衛門〜

鳥居強右衛門


 武田勝頼に包囲されて落城寸前だった長篠城を救ったのは、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という奥平家の家臣(陪臣)だった。

 強右衛門が命がけで織田・徳川の援軍がくることを知らせたおかげで、城内の兵たちの士気は上がり、落城寸前だった城を守り抜くことができたのだという。


リンクボタン鳥居強右衛門〜命を懸けて絶体絶命の長篠城を救った足軽〜





〜酒井忠次〜

 強右衛門の活躍もあって何とか持ちこたえていた長篠城を救ったのは、徳川四天王のひとり酒井忠次だった!


リンクボタン設楽原の戦い〜信長に鳶ヶ巣山砦の奇襲を進言した酒井忠次〜




長篠の戦い










長篠城址
長篠城址

愛知県新城市長篠字市場22−1

JR飯田線「長篠城駅」から徒歩7分



長篠城・長篠古戦場
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。








中世歴史めぐり


徳川家康


徳川氏発祥の地 松平氏発祥の地
家康生誕地 東照宮