|
松平信康(まつだいらのぶやす)は、徳川家康の嫡男。 1559年(永禄2年)3月6日、駿府で誕生。 家康がまだ駿府で今川氏に仕え、松平元康と名乗っていた頃に生まれた。 母は瀬名姫(築山殿)。 幼名は竹千代。 |
※ | 松平家の嫡男の幼名は竹千代だったらしい・・・ |
![]() |
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後、家康が今川氏から独立すると、母の瀬名・妹の亀姫とともに今川の人質となってしまうが、 1562年(永禄5年)の上ノ郷城合戦で捕虜となった鵜殿氏長・氏次の兄弟との人質交換が成立し、岡崎の家康のもとに。 1567年(永禄10年)5月、織田信長の長女・徳姫と結婚。 このとき、竹千代も徳姫も9歳。 7月には元服して信康と改名。 「信」は信長、「康」は家康の一字。 |
※ | 1562年(永禄5年)、家康と清州同盟を結んだ信長は、翌年、徳姫を嫁入りさせる約束をしていたのだとか。 |
1570年(元亀元年)、家康が浜松城に移ったことにより岡崎城主となった信康。 徳姫との間には二人の女子を授かり、長篠の戦いなどで活躍するのだが・・・ 母の築山殿は、嫡男に恵まれない信康に元武田氏の家臣の娘を側室として迎えさせた。 そのことで徳姫は築山殿は不仲となり、さらに、信康とも不仲になってしまったのだという。 今川出身の築山殿と織田出身の徳姫は、もともと仲が良くなかったという説もあるが・・・ そして・・・ 1579年(天正7年)、徳姫が信長に築山殿と信康の罪状を訴えるという結果に。 信長は、使者として安土城に来ていた酒井忠次を通じて、家康に信康の殺害を命じ、 家康は、信康を岡崎城から出して二俣城に幽閉し、9月15日、自害(切腹)させた。 これより前の8月29日、築山殿は遠江国小藪村で殺害されている。 |
浜松城は、遠江国に侵攻して今川氏の曳馬城(引間城)を落とし、翌年には掛川城を開城させて遠江国を手中にした家康が築いた城。 |
信康が切腹させられた二俣城は、浜松城の防衛拠点となった城で、家康と武田信玄の激しい争奪が繰り広げられた。 |
信康は、小松原長安院に葬むられた(現在の清瀧寺)。 |
西来院の月窟廟は、殺害された築山殿の廟堂。 |
1574年(天正2年)、家康の側室・於万の方が次男となる於義伊(のちの結城秀康)を出産。 しかし、於万の方は築山殿に認められない側室であったため認知されなかった。 家康にも面会できない於義伊だったが、信康のとりなしで面会することができたのだという。 |
![]() ![]() |
平岩親吉は、信康のお守役で、織田信長が信康の切腹を命じると、自らの首を信長に差し出すことで信康の助命を願ったのだと伝えられている。 参考までに・・・ 平岩親吉は、1575年(天正3年)、家康の母於大の方の兄水野信元の誅殺を命じられている。 信元も武田氏内通の疑いかけられていた・・・ |
近年の研究では・・・ 信康の切腹は信長の命によるものではなく、家康と信康との対立が原因という説がある。 |
1575年(天正3年)、信康のもとで町奉行を務めていた大賀弥四郎が甲斐国の武田勝頼に内通していたとして鋸挽きの刑に処せられている。 この年、勝頼は三河国に侵攻するが、その目的は岡崎城を制圧することにあったのだといわれる。 しかし、大賀弥四郎の謀反が発覚してしまったことから、長篠城を奪還する作戦に切り替えたのだとか(長篠の戦い)。 大賀弥四郎の謀反には築山殿が参画していたとも伝えられ、一説によると、岡崎城の家臣団が武田に寝返り、信康を新国守にしようと企てていたとも考えられるのだという。 信康と築山殿の処分の理由は、謀反にあったのかもしれない。 |
徳姫の訴状を安土城に届けた酒井忠次は、信長に訴状の内容について問われ、事実と認めたというが・・・ |
萬松院は、信康が自刃した当時、二俣城の城主だった大久保忠世が、のちに城主となった小田原城の城下に信康を供養するために創建した寺院。 信康を自害させたことを悔やんでいたという忠世は、1594年(文禄3年)、信康が自害した日と同じ9月15日に死去。 自身が創建した大久寺に葬られたのだという。 |
西念寺は、信康の介錯を命じられたという服部半蔵が信康の慰霊のために創建した安養院を前身とする寺。 信康の供養塔と半蔵の墓が残されている。 |
![]() |
|