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後北条氏の居城
小田原城


編集:yoritomo-japan.com








小田原城址公園


 小田原城は、源頼朝の挙兵に従った相模国の豪族・土肥実平の嫡男遠平の居館(小早川城)を始まりとしている。

 1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱で土肥氏が禅秀に味方して没落すると、足利持氏に味方した大森氏が奪取したのだという。

 その後、大森氏は扇谷上杉家の家臣として勢力を拡大したが、1495年(明応4年)、北条早雲(伊勢盛時)が奪取。

 以後、小田原北条氏(後北条氏)の居城となった。


早雲は、小田原城奪取後も伊豆の韮山城を居城としていた。



 三代北条氏康の時代には難攻不落の城といわれ、1561年(永禄4年)の上杉謙信の攻撃や、1569年(永禄12年)の武田信玄の攻撃にも耐えた。

 関東支配の拠点として拡張された城は、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めのときには、城下町を囲む長さ9qの総構となり、その規模は最大に達している。

 現在の小田原城天守閣は、江戸時代の雛形や引き図をもとに、1960年(昭和35年)、鉄筋コンクリート造で復興されたもの。

 内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書などの資料を展示している。



小田原城
小田原城天守閣


高さ:約40m

延床面積:1822u

総瓦枚数:63440枚

総工費:8000万円



小田原城天主閣
リンクボタン天主閣からの景色





八幡山古郭
リンクボタン八幡山古郭
小田原城馬出門
リンクボタン馬出門


小田原城銅門
リンクボタン銅門
(あかがねもん)
小田原城常盤木門
リンクボタン常盤木門
(ときわぎもん)





〜小田原城の総構〜

 総構(そうがまえ)は、小田原城と城下町を土塁や塀で囲んだ防御施設。

 1590年(天正18年)の豊臣秀吉との合戦(小田原征伐)に備えて整備された総構は全長約9qにもなるもので、大坂城の総構を凌ぐものだった。

 参考までに、江戸城の総構は約16qだった。 



小峯御鐘ノ台大堀切
リンクボタン小峯御鐘ノ台大堀切総構遺構
(総構遺構)

 総構は、徳川家康にほぼ撤去されてしまうが、小峯御鐘ノ台大堀切は当時の面影を残した遺構。





小田原北条五代

北条早雲
早雲
北条氏綱
氏綱
北条氏康
氏康


北条氏政
氏政
北条氏直
氏直









〜相模の支配権を手に入れた北条氏〜

 伊豆の韮山城を拠点として、1495年(明応4年)、小田原城を奪い取った北条早雲は相模へ進出し、1510年(永正7年)には住吉城を築いたが、三浦道寸(義同)によって落されてしまう。

 態勢を立て直した早雲は、1512年(永正9年)、岡崎城にいた道寸を攻め、さらに住吉城を攻めて道寸を三浦の新井城に敗走させた。

 これにより相模の支配権を手に入れ、新井城の道寸攻略のため、こちらも難攻不落といわれた玉縄城を築いている。


韮山城址
リンクボタン韮山城址
(伊豆の国市)
玉縄城址
リンクボタン玉縄城址
(鎌倉)



リンクボタン武家の都鎌倉の再興を誓った北条早雲


北条早雲と鎌倉(okadoのブログ)





〜北条氏の滅亡〜

 1590年(天正18年)、小田原攻めを行った豊臣秀吉は、小田原城攻略のため、西の笠懸山に城を築いた。

 一夜のうちに城を築いたように見せかけたことから「石垣山一夜城」と呼ばれている。

 この城の出現によって小田原城の将兵は戦意を喪失したという。
 
 その後、秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得により和議が成立。

 城主氏直は官兵衛に、「吾妻鏡」、「日光一文字(太刀)」、「北条白貝(ほら貝)」、「平家琵琶」を贈ったのだという。

 そして、7月5日、氏直は秀吉に降伏し、小田原城は無血開城した。

 7月11日、四代氏政とその弟氏照が切腹。

 五代氏直高野山へ追放され、小田原北条氏(後北条氏)は滅亡した。



小田原征伐


リンクボタン黒田官兵衛が譲り受けた『吾妻鏡』北条本〜小田原征伐〜



石垣山一夜城
リンクボタン石垣山城
北条政・氏照の墓
リンクボタン氏政・氏照の墓



〜北条氏の菩提所〜

早雲寺
リンクボタン早雲寺
北条五代の墓
リンクボタン北条五代の墓





〜小田原征伐の徳川家康の本陣〜

徳川家康陣地跡の碑
リンクボタン徳川家康陣地跡

 小田原攻め徳川家康が陣を張ったのは、今井村の土豪・柳川和泉守泰久の屋敷地。





〜温泉で疲れを癒していた秀吉〜

太閤石風呂
リンクボタン太閤石風呂

 箱根の底倉温泉にある太閤石風呂は、石垣山に陣を構えた秀吉が将兵たちとともに疲れを癒したという湯。

 箱根神社には、小田原征伐の最中に秀吉が聚楽第の北政所(寧々)に宛てた自筆の書状が残されている。





〜北条氏滅亡後の小田原城〜

 北条氏滅亡後の小田原城には、徳川家康の家臣で遠江国の二俣城の城主だった大久保忠世が入り、城は改修され近代城郭の姿へと変わった。

 1614年(慶長19年)、大久保忠隣が改易され、小田原城は破却されるが、1632年(寛永9年)に稲葉正勝が入城すると大改修が行われ、その姿は一新された。

 1686年(貞享3年)、大久保忠朝(忠隣の子孫)が入城するが、1703年(元禄16年)の大地震により、城のほとんどの施設が倒壊焼失してしまう。

 その後、本丸御殿を除いた施設が再建され幕末を迎えている。

 1870年(明治3年)に小田原城は廃城となり、天守などが売却され解体された。





〜大久保忠世は・・・
宇都宮朝綱の子孫〜


 大久保忠世は、源頼朝に仕えた下野国宇都宮氏の三代当主・朝綱の子孫ともいわれる。

 大久保氏の先祖は、新田義貞に仕えた後、三河国に土着し、松平氏三代当主の信光に仕えるようになったのだという・・・


リンクボタン大久保忠世の先祖は源頼朝に仕えた宇都宮朝綱?





大久寺
リンクボタン大久寺
小田原・萬松院
リンクボタン萬松院

 大久寺は、大久保忠世が遠江国の二俣城の城主だった頃から帰依していた日英を招いて創建した寺。

 境内には大久保家の墓がある。

 萬松院は、大久保忠世が二俣城で自刃した徳川家康の嫡男・松平信康を供養するために創建。

 境内には信康の供養塔が建てられている。



大久保神社
リンクボタン大久保神社

 大久保神社は、小田原藩初代藩主となった大久保忠世と、二宮尊徳を起用して藩政改革を行った十一代藩主・大久保忠真を祀る社。



小田原無量寺
リンクボタン無量寺
小田原正恩寺
リンクボタン正恩寺

 無量寺は、徳川家康が江戸鍛冶橋御門内に分寺させた寺。

 正恩寺は、大久保忠世の長子・忠隣室の妙賢院が中興した寺。



長興山紹太寺
リンクボタン長興山紹太寺
長興山紹太寺の枝垂れ桜
リンクボタン枝垂れ桜

 長興山紹太寺は小田原藩主・稲葉氏の菩提寺。

 本尊の釈迦牟尼は、北条政子源頼朝の三回忌に建立した浄業寺(伊勢原市・廃寺)の本尊だったのだという。

 枝垂れ桜は、稲葉正則が植えられたものと伝えられている。





〜農村改革の指導者・二宮尊徳〜

報徳二宮神社
リンクボタン報徳二宮神社
二宮尊徳
リンクボタン二宮尊徳

 報徳二宮神社は、小田原城址公園内にある二宮尊徳を祀る社。

 二宮尊徳は、小田原藩領をはじめ諸藩諸村の農地(荒地)を改良して、農村の復旧に努力した。





御感の藤
リンクボタン御感の藤
(小田原城址公園)
北條五代祭り
リンクボタン北條五代祭り
(小田原城址公園)

 御感の藤は、二の丸御殿に鉢植えされていたもので、花房が1メートルにもなる。

 北條五代祭りは、毎年5月3日に開催される小田原市最大のイベント。



小田原城の桜
桜
小田原城のアジサイ
リンクボタンアジサイ










小田原城址公園
小田原城址公園

小田原市城内6−1

小田原駅から徒歩10分



小田原城周辺をめぐる
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