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北条氏直は、1562年(永禄5年)、北条氏政の次男として誕生。 母は武田信玄の娘黄梅院。 1580年(天正8年)に家督を継ぎ、父氏政とともに相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野と常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石に達する後北条氏の最大版図を築き上げた。 1582年(天正10年)、甲州征伐で武田勝頼が滅び、本能寺の変で織田信長が横死すると、天正壬後の乱が起こり、徳川家康と武田の遺領をめぐって争うが和睦し、家康の次女督姫を正室として迎えている。 一方、信長の跡を継いで全国平定を目指す豊臣秀吉は、四国、九州を攻め西国をほぼ平定。 1585年(天正13年)、「関東・奥両国惣無事令」を出した。 これは、関東と陸奥・出羽においての大名間の領土紛争は秀吉が処理するというもの。 さらに1588年(天正16年)には、聚楽第に後陽成天皇を招き、全国の緒大名にも列席を命じたが、氏政・氏直父子は列席しなかった。 そうした状況下の1589年(天正17年)10月、上野国沼田城の猪俣邦憲が名胡桃城を奪い取るという事件が発生。 秀吉は惣無事令違反として北条氏に宣戦布告。 翌1590年(天正18年)4月には、秀吉による本格的な小田原征伐が開始され、秀吉は小田原城の西の笠懸山に総石垣の城を築いて本営とした。 その城が「石垣山一夜城」で、小田原城からは見えないように築城され、完成後に周囲の木を伐採して一夜のうちに城を築いたように見せかけたことからそう呼ばれる。 この城の出現によって小田原城の将兵は戦意を喪失したという。 氏直は、約3ヶ月間の籠城の末、7月5日、自分の命と引き換えに将兵の助命を乞い降伏。 しかし、父氏政とその弟氏照は、「小田原征伐を招いた責任者である」として秀吉から切腹を命じられている。 氏直は助命されて紀伊国の高野山に謹慎となるが、翌年には赦免されて豊臣家の大名となった。 ただ、11月4日に病死している。 「結びして 解くる姿は かはれども 氷のほかの 水はあらめや」 |
小田原城 |
八幡山古郭 (小田原城) |
小田原城の氏政・氏直父子に開城の説得をしたのは黒田如水(官兵衛)だった。 城主氏直は、和議の謝礼として官兵衛に「吾妻鏡」、「日光一文字(太刀)」、「北条白貝(ほら貝)」、「平家琵琶」を贈ったという。 |
黒田官兵衛が譲り受けた『吾妻鏡』北条本〜小田原征伐〜 |
早雲寺 |
北条五代の墓 |
早雲寺は、北条早雲の死後、子の氏綱が創建した北条氏の菩提寺。 墓所には早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の墓がある。 1590年(天正18年)の小田原落城後、北条氏を継承した狭山藩北条家五代当主の氏治が1672年(寛文12年)に早雲の命日に際して建てたもの。 |
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