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石垣山城は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉が後北条氏攻略のために築いた陣城。 小田原城の西にある笠懸山に小田原城からは見えないように城を築き、完成後に周囲の木を伐採して一夜のうちに城を築いたように見せかけたことから「石垣山一夜城」と呼ばれ、北条氏側の将兵の戦闘意欲を喪失させる効果があった。 この城は、関東では最初に造られた総石垣の城で、石積みは「野面積み」(のづらづみ)と呼ばれる。そのため「石垣山」の名がある。 実際の工期は4月から6月までで、約80日間を費やした(6月26日完成)。 石垣山城は、長期戦に備えた城構えで、小田原攻めの本営としてだけではなく、秀吉の威信を示すものだったという。 滞在期間100日の間には、淀殿や千利休が呼ばれて茶会が催され、天皇の勅使を迎えたり、能役者や猿楽師も呼ばれたという。 |
小田原征伐で豊臣秀吉が最初に本陣を構えたのが北条氏の菩提寺・早雲寺。 石垣山城が完成すると焼き払われた。 |
箱根の底倉温泉にある太閤石風呂は、秀吉が将兵たちとともに疲れを癒したという湯。 徳川家康や淀殿も訪れたのだという。 箱根神社には、小田原征伐の最中に秀吉が聚楽第の北政所(寧々)に宛てた自筆の書状が残されている。 |
豊臣秀吉は、徳川家康と石垣山から小田原城を見渡しながら連れ小便をし、「小田原が落城したら関八州を貴殿に進ぜよう」と言って、関東への移封を命じたという。 小田原城の開城後、秀吉は家康の駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国を召し上げ、後北条氏の旧領、武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野の一部・常陸の一部の関八州へ移封した。 |
豊臣秀吉 |
徳川家康 |
二の丸北東の谷地の周囲に石垣を積み上げて造られた井戸曲輪。 底には井戸が掘られ、淀殿が化粧に使ったということから「淀殿化粧井戸」、井戸曲輪がさざえのような石垣であることから「さざえの井戸」と呼ばれる。 井戸曲輪の石垣は関東大震災にも耐え、石垣山城の中でも当時の面影を最も良く残している。 |
石垣の「野面積み」は、あまり加工されていない石を用いたもので、築城に際しては、近江の石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)が呼ばれたという。 |
1590年(天正18年)7月11日、小田原城は開城。 秀吉の側近黒田如水(官兵衛)の説得により和議が成立し、小田原城主北条氏直は官兵衛に「吾妻鏡」、「日光一文字(太刀)」、「北条白貝(ほら貝)」、「平家琵琶」を贈ったという。 氏直の父氏政とその弟氏照は切腹。 氏直は高野山へ登り謹慎した後、翌年には赦免され豊臣の大名となったが、同年11月4日、病死した。 |
石垣山城の本丸跡からは小田原城を望むことができる。 |
黒田官兵衛が譲り受けた『吾妻鏡』北条本〜小田原征伐〜 |
小田原征伐の先鋒として出陣した越前北庄城の堀秀政は、その陣中で5月27日病死し、海蔵寺に葬られたという。 ※海蔵寺は石垣山の麓。 |
小田原市早川字梅ヶ窪地内 JR早川駅より関白農道を経て徒歩約40分 |
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