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古来「箱根権現」と称され、およそ2400年前の孝昭天皇の時代に、聖占が箱根最高峰の神山(神が降臨する所)を遥拝できる駒ヶ岳山頂に神仙宮を開いたことにはじまる。 757年(天平宝字元年)、万巻上人が芦ノ湖畔に里宮を創建。 これが現在の箱根神社。 坂上田村麻呂、源頼義が武運長久を祈願し、源為義と源義朝は東国の輩の動員催促権を与えたのだという。 『吾妻鏡』によると、伊豆に流されていた源頼朝も崇敬し、1180年(治承4年)8月24日、石橋山で大庭景親らの平氏方に敗れたときには、別当の行実とその弟永実に匿われている。 鎌倉時代に幕府によって行われた箱根権現・走湯権現(伊豆山権現)と三嶋社を参詣する「二所詣」は、1188年(文治4年)正月に頼朝が始めたもので、1327年(嘉暦2年)まで続けられた。 1194年(建久5年)には北条政子の二所詣も行われている。 |
瓊瓊杵尊 (ニニギノミコト) 木花咲耶姫命 (コノハナサクヤヒメノミコト) 彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト) |
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![]() (箱根路) |
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![]() (龍神水) |
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古くから箱根権現(箱根神社)の御手洗の池と呼ばれてきた湖。 |
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箱根三社参りは、運気アップで人気のパワースポットまぐりで、箱根神社・箱根元宮・九頭龍神社本宮を参詣するもの。 |
宝物殿には、平安時代の「万巻聖人坐像」(国重文)、鎌倉時代の「箱根権現縁起絵巻」(国重文)、曽我兄弟所持の名刀「赤木柄短刀」(国重文)などの貴重な宝物が展示されている。 源義経が奉納したと伝えられる太刀「薄緑丸」(うすみどりまる)は、源頼朝が帯びた「髭切」(ひげきり)とともに源氏重代の太刀として伝えられる「膝丸」(ひざまる)だという説も。 |
1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いで大敗した源頼朝は、椙山山中に逃げ込んだ後、箱根権現別当の行実とその弟永実の計らいで、箱根権現に身を寄せている。 |
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『太平記』によると、江の島に参籠した北条時政は、現れた龍神に前世が箱根法師だったことを告げられ、龍神が残していった3つの鱗を家紋としたのだという。 |
1192年(建久3年)8月9日、源頼朝は、妻の北条政子が産気づいたことから、鶴岡八幡宮と相模国の神社仏閣27ヶ所に神馬を奉納し、安産のための読経をさせた。 その中の一つに箱根権現がある。 このとき誕生したのが、後に三代将軍となる源実朝。 |
安産杉は、子孫繁栄を祈る子授けの杉と敬われてきた古木。 矢立の杉とともに「霊妙杉」と称えられている。 |
『吾妻鏡』によれば、源頼朝は、伊豆山と箱根山の二所権現と三嶋社を参詣する「二所詣」を1188年(文治4年)に行っている。 「二所詣」の最初の記録とされ、以後、鎌倉時代を通して行われた。 |
『吾妻鏡』によれば、1192年(建久3年)5月8日、源頼朝が後白河法皇の四十九日法要を勝長寿院で行った際には、箱根権現の僧も18名参列している。 他は、鶴岡八幡宮20人、勝長寿院13人、伊豆山権現18人、大山寺3人、金目観音3人、高麗寺3人、六所神社3人、岩殿寺2人、杉本寺1人、窟不動1人、慈光寺10人、浅草寺3人、真慈悲寺3人、飯泉観音2人、国分寺3人。 |
『吾妻鏡』によると、源頼朝は、8月15日の放生会や3月3日の重三の節句などに、箱根権現や伊豆山権現の稚児を呼び寄せ、鶴岡八幡宮で舞楽を勤めさせている。 1189年(文治5年)の重三の節句には、箱根権現から増寿、箱熊、寿王、閉房、楠鶴、陀羅尼、弥勒、伊豆石丸の八人が呼ばれたことが記録されている。 箱根権現や伊豆山権現の稚児が鶴岡八幡宮の饗宴に果たした役割は大きかった。 |
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静岡県の函南町には、箱根権現を開いた万巻の弟子が建てた新光寺があったことで「小筥根」と呼ばれていたのだという。 新光寺やその子院に置かれていた仏像は、現在、「かんなみ仏の里美術館」に収蔵されている。 |
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80−1 小田原駅から箱根登山バス箱根町線 「元箱根」下車徒歩10分 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
60年に一度の祭礼![]() |
源頼朝も祀る! |
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