鎌倉手帳(寺社散策)

運慶 鶴岡八幡宮例大祭



運慶
武家の都「鎌倉」に影響を与えた新様式

編集:yoritomo-japan.com








2025年9月9日から東京国立博物館で特別展「運慶 祈りの空間−興福寺北円堂」が開催されます。



運慶
運慶坐像
(京都:六波羅蜜寺蔵)


 運慶は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した奈良の仏師。

 父は、師でもあった康慶。

 白鳳、天平時代の仏像を研究して独自の作風を切り開いた。

 運慶が属する仏師集団は、その多くが名前に「慶」の字を用いるところから「慶派」と呼ばれ、奈良興福寺を拠点に活動。

 現存する最古の作品は、1176年(安元2年)に完成させた奈良・円成寺の「大日如来像」(国宝)。

 この像は20歳頃の作品で、胎内墨書から父康慶の指導のもとで11ヶ月かけて造り上げたことが判明している。



鶴岡八幡宮:ぼんぼりうちわ
リンクボタン2021ぼんぼりうちわ

 2021年の鶴岡八幡宮「ぼんぼりうちわ」は、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の脚本を手掛けた三谷幸喜先生の揮毫。

 金剛峯寺の矜羯羅童子かも。





奈良仏師

 奈良仏師は、定朝の孫とされる頼助が始祖。

 定朝は、藤原道長が創建した法成寺の造仏を担当し、その褒美として仏師としては初めてとなる法橋の地位を与えられたのだという。

 藤原頼通平等院阿弥陀如来像は、定朝の作だと特定できる唯一のもの。

 定朝の孫頼助は、奈良の興福寺を拠点に活動し、康助→康朝→成朝と父から子へ受け継がれたが、成朝没後に正系は途絶え、傍系の康慶・運慶らの慶派に受け継がれていった。

 運慶の父康慶の出自は不明だが、康助や康朝の弟子で何らかの血縁関係にあったという説がある。



宇治平等院
リンクボタン平等院
平等院鳳凰堂
リンクボタン鳳凰堂





南都焼討

 1180年(治承4年)、以仁王が平家打倒の令旨を発して源頼政と挙兵。

 これにより、源頼朝をはじめとする全国の源氏が立ち上がり源平の戦いが始まるが、この年の暮、平清盛の五男平重衡南都を焼討し、奈良仏師が拠点を置いていた興福寺や総国分寺として天下随一の規模を誇っていた東大寺が灰燼に帰した。

 翌年から奈良仏師は興福寺の復興を手掛けることに。



興福寺
リンクボタン興福寺

 興福寺の諸仏は、京都仏師(円派や院派)と奈良仏師が再興。



東大寺
リンクボタン東大寺

 東大寺の再興に奔走したのは俊乗坊重源

 後白河法皇の支援のもとで大仏が鋳造され、法皇亡き後は源頼朝が最大の支援者となった。



運慶願経
リンクボタン運慶願経

 運慶願経は、運慶が南都焼討後に完成させた法華経の書写八巻。

 京都の真正極楽寺(真如堂)に巻二から七が伝えられている。



南都焼討


南都焼討と東大寺の再興 〜重源と源頼朝〜





頼朝が鎌倉に呼んだ成朝

 1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源頼朝は、5月になると勝長寿院の造仏のため奈良仏師の成朝(せいちょう)を鎌倉に呼び、10月には皆金色の阿弥陀仏が完成して落慶法要が行われた。

 頼朝が京都仏師ではなく奈良仏師を選んだ理由は、平家をはじめとする旧勢力との関係が稀薄だったこと。

 奈良仏師の中から成朝を選んだ理由は・・・

 奈良仏師は、平等院阿弥陀如来坐像を造立した定朝の流れをくむ仏師集団。

 成朝は、本家慶朝の子。

 頼朝の場合、範頼義経との兄弟関係からもわかるとおり、系統や血筋を重視するタイプ。

 したがって「定朝の嫡流」である成朝を選んだのではないかという考えが有力。

 当時、奈良仏師の中で僧綱位にあったのは運慶の父康慶のみだったが、それでも頼朝は無位の成朝を選んでいる。

 僧綱位とは、法橋・法眼・法印といった僧位。

 康慶は、1177年(治承元年)に後白河法皇蓮華王院五重塔の造仏を担当して法橋の地位を得ていた。

 鎌倉に下向する前の成朝は、興福寺東金堂や食堂の造仏を任されていたというが、食堂の本尊を成朝が造立したという記録はなく、東金堂の薬師三尊像は1187年(文治3年)に飛鳥山田寺から奪取したものが充てられている。



成朝





北条時政・和田義盛は・・・
運慶に造仏依頼!

 源頼朝成朝に造仏を依頼したことで開かれた東国と奈良仏師の関係。

 1186年(文治2年)、北条時政願成就院の諸仏制作を運慶に依頼。

 1189年(文治5年)には、和田義盛浄楽寺の諸仏制作を運慶に依頼。

 何故、北条時政と和田義盛は、成朝ではなく運慶を選んだのか・・・

 頼朝と同じ成朝にするわけにもいかず、さらに、傍系であっても僧綱位にあった康慶を選ぶわけにもいかないため、運慶を選んだのだという説が有力。



願成就院
リンクボタン願成就院
(伊豆の国市)

 伊豆の国市の願成就院は、北条時政が頼朝の奥州征伐の戦勝を祈願して建立。

 2013年(平成25年)、運慶の真作とされる阿弥陀如来像・不動三尊像・毘沙門天像・こんがら童子像・せいたか童子像が国宝に指定されている。

 リンクボタン運慶の仏像
(願成就院の運慶の真作)



横須賀浄楽寺
リンクボタン浄楽寺
(横須賀市)

 横須賀市芦名の浄楽寺は、鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛が建立したと伝わっている。

 阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は運慶の真作。

 毘沙門天像の胎内にあった銘札から、運慶が義盛と夫人のために造立したことが判明している。

 義盛の阿弥陀三尊の発願は、奥州遠征勝利祈願のためともされているが、願成就院を建立した北条時政への対抗からともいわれる。

 リンクボタン運慶の仏像
(浄楽寺の運慶の真作)





称名寺にも運慶の真作!


称名寺
リンクボタン称名寺
(横浜市金沢区)

 横浜市金沢区の称名寺は、北条実時の持仏堂がはじまりとされている。

 塔頭光明院大威徳明王像は、源実朝の養育係だった大弐局の発願で、1216年(建保4年)、最晩年の運慶によって造立された貴重な仏像。

 六浦の瀬戸神社に伝わる舞楽面は源実朝愛用の面とされ、運慶の作ではないかと考えられている。





勝長寿院と永福寺にも運慶仏


勝長寿院跡
リンクボタン勝長寿院跡
(鎌倉)

 勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。

 1219年(承久元年)12月、北条政子は、この年の正月に暗殺された源実朝の冥福を祈るため勝長寿院に五仏堂を建立し、運慶の五大尊像を安置している。



鎌倉永福寺
鎌倉観光永福寺跡
(鎌倉)

 永福寺は、源頼朝が弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために奥州平泉の寺院を模して建立した寺院。

 永福寺跡の発掘調査では、運慶作の仏像の荘厳金具と似たものが出土していることから、永福寺にも運慶の仏像があったものと推測されている。

 横須賀の曹源寺の十二神将像は、運慶周辺の仏師によるものと考えられ、永福寺薬師堂にあった十二神将の模刻といわれている。










運慶の真作は20体に満たない

 運慶作とされる仏像は数多く存在するが、専門家によって「運慶の仏像」と断定・推定されているものは20体に満たない。



東大寺大仏殿
リンクボタン東大寺大仏殿

 1196年(建久7年)に造立された東大寺大仏殿の脇侍と四天王像は、運慶とその一族によって造立されたものであったという。

 この時、運慶は法眼の位を得ている。



東大寺南大門金剛力士像
リンクボタン東大寺南大門 金剛力士像

 東大寺南大門の「金剛力士(仁王)像」は、造高8メートルにおよぶ巨像で、像内納入文書から1203年(建仁3年)に運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)らが2か月で造立したものであることが判明している。

 運慶は、南大門の金剛力士像造立の功績により、僧綱の極位である法印に任ぜられている。



興福寺北円堂
リンクボタン興福寺北円堂

 興福寺北円堂の「弥勒菩薩坐像」「無著・世親菩薩立像」は、1212年(建暦2年)に運慶一門によって造立されたもの。



興福寺中金堂
リンクボタン興福寺中金堂

 興福寺中金堂の四天王立像は、北円堂に安置されていた運慶作の像ではないかと考えられている。



興福寺南円堂
リンクボタン興福寺南円堂

 南円堂の「不空羂索観音菩薩像」「法相六祖坐像」「四天王立像」は運慶の父康慶らの造立。



東寺講堂
リンクボタン東寺講堂

 運慶は、文覚の依頼により東寺講堂に安置されている諸仏修造にも携わっている。





運慶作と推定される像


瀧山寺
リンクボタン瀧山寺
(岡崎市)

 瀧山寺は、源頼朝の従兄・寛伝が住持した寺。

 聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、1201年(正治3年)、寛伝が頼朝の三回忌に運慶とその長男湛慶に造立させたものと伝えられている。

 湛慶は晩年、祖父の康慶が携わった後白河法皇蓮華王院(三十三間堂)の本尊千手観音坐像を制作している。

 その他、興福寺西金堂の仏頭、金剛峯寺の八大童子立像、六波羅蜜寺地蔵菩薩坐像などが運慶作と推定されている。





運慶の地蔵十輪院

 地蔵十輪院は、運慶が八条高倉に建立したという寺院。

 かつて、栂尾の高山寺には地蔵十輪院にあった運慶作の廬舎那仏と子の湛慶らが制作した四天王像が安置されていたのだという。

 六波羅蜜寺地蔵菩薩坐像地蔵十輪院から移されたものと伝えられている。





鎌倉に運慶の真作はなし!

 鎌倉には、運慶作と伝わる仏像は数多く存在するが、運慶の真作として確認されているものはない。

 ただ、『吾妻鏡』によると、源実朝の持仏堂「釈迦如来像」、北条義時大倉薬師堂「薬師如来像」、勝長寿院「五大尊像」が運慶作であったのだという。



(鎌倉で運慶作と伝わる仏像)

光触寺 阿弥陀如来像
杉本寺 十一面観音像
(頼朝寄進の御前立)
地蔵菩薩像
仁王像
教恩寺 阿弥陀三尊像
(平重衡念持仏)
延命寺 地蔵菩薩像
補陀洛寺 日光・月光菩薩像
来迎寺 阿弥陀三尊像
英勝寺 阿弥陀三尊像
圓應寺 閻魔大王像



銅造阿弥陀如来坐像
リンクボタン銅造薬師如来坐像
(壽福寺)

 壽福寺銅造薬師如来坐像は、北条政子鶴岡八幡宮の神宮寺の本尊として造立した可能性が高く、興福寺北円堂に安置されている国宝の弥勒仏坐像に通じるものがあるという。



辻薬師堂戌神将
リンクボタン戌神像
(辻の薬師堂)

 辻の薬師堂の戌神像は、北条義時が建てた大倉薬師堂の戌神像(運慶作)の模刻と考えられている。





鎌倉と運慶様式

 平重衡南都焼討によって焼失した興福寺東大寺の復興に貢献した運慶。

 平家滅亡後は東国の武将と交流することで、それまでの貴族的な仏像から力強い仏像が造り出されていった。

 鎌倉様式ともいわれる運慶の仏像は、重量感と力強さがあって写実性に富んでいるといわれている。

 運慶は、1223年(貞応2年)に亡くなったと伝えられているが、運慶没後も鎌倉では多くの慶派の仏師が活躍し、明王院不動明王像は運慶の次男康運の作だとする説がある。

 その後、宋文化が流入すると慶派の仏師たちによって仏具などが作られるようになった。

 建長寺の須弥壇や円覚寺の前机などが知られているが、こういった技術は、現在も伝統工芸品「鎌倉彫」に生かされている。



建長寺須弥壇
リンクボタン黒漆須弥壇
(建長寺)
円覚寺前机
リンクボタン前机
(円覚寺)

 鎌倉彫は、宋の工人陳和卿が持ってきた彫漆工芸を運慶の次男康運が真似て作ったのが始まりなのだという。



鎌倉大仏
リンクボタン鎌倉大仏


 鎌倉大仏は、運慶らの慶派の作風を保ちつつ、鎌倉で流行った宋の様式を取り入れた仏像。



初江王坐像
リンクボタン木造初江王坐像

 圓應寺木造初江王坐像は、運慶の慶派の流れと宋風の文化とが混じった様式で、東国に残る鎌倉彫刻中でも屈指の優品。









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