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運慶は、鎌倉時代に活躍した奈良の仏師。 父は、師でもあった康慶。 白鳳、天平時代の仏像を研究して独自の作風を切り開いた。 運慶が属する仏師集団は、その多くが名前に「慶」の字を用いるところから「慶派」と呼ばれ、奈良興福寺を拠点に活動していた。 現存する運慶の最古の作品は、奈良・円成寺の「大日如来像」。 この像は父康慶とともに造り上げたものといわれている。 |
2021年の鶴岡八幡宮の「ぼんぼりうちわ」は、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の脚本を手掛けた三谷幸喜先生の揮毫。 金剛峯寺の矜羯羅童子かも。 |
奈良仏師は、定朝の孫とされる頼助が始祖。 定朝は、藤原道長が創建した法成寺の造仏を担当し、その褒美として仏師としては初めてとなる法橋の地位を与えられたのだという。 藤原頼通の平等院の阿弥陀如来像は、定朝の作だと特定できる唯一のもの。 定朝の孫頼助は、奈良の興福寺を拠点に活動し、康助、康朝、成朝と父から子へ受け継がれたが、成朝没後に正系は途絶え、傍系の康慶、運慶らの慶派に受け継がれていった。 |
平等院 |
鳳凰堂 |
1180年(治承4年)、以仁王が平家打倒の令旨を発して源頼政と挙兵。 これにより、源頼朝をはじめとする全国の源氏が立ち上がり源平の戦いが始まるが、この年の暮、平重衡が南都を焼討し、奈良仏師が拠点を置いていた興福寺や総国分寺として天下随一の規模を誇っていた東大寺が灰燼に帰した。 翌年から奈良仏師は興福寺の復興を手掛けることに。 |
南都焼討と東大寺の再興〜重源と源頼朝〜 |
1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源頼朝は、5月になると勝長寿院の造仏のため奈良仏師の成朝を鎌倉に呼び、10月には皆金色の阿弥陀仏が完成して落慶法要が行われた。 頼朝が京都仏師ではなく奈良仏師を選んだ理由は、平家をはじめとする旧勢力との関係が稀薄だったこと。 奈良仏師の中から成朝を選んだ理由は・・・ 奈良仏師は、平等院の阿弥陀如来坐像を造立した定朝の流れをくむ仏師集団。 成朝は、本家慶朝の子。 頼朝の場合、範頼・義経との兄弟関係からもわかるとおり、系統や血筋を重視するタイプ。 したがって「定朝の嫡流」である成朝を選んだのではないかという考えが有力。 当時、奈良仏師の中で僧綱位にあったのは運慶の父康慶のみだったが、それでも頼朝は無位の成朝を選んでいる。 僧綱位とは、法橋・法眼・法印といった僧位。 |
源頼朝が成朝に造仏を依頼したことで開かれた東国と奈良仏師の関係。 1186年(文治2年)、北条時政が願成就院の諸仏制作を運慶に依頼。 1189年(文治5年)には、和田義盛も浄楽寺の諸仏制作を運慶に依頼。 何故、北条時政と和田義盛は、成朝ではなく運慶を選んだのか・・・ 頼朝と同じ成朝にするわけにもいかず、さらに、傍系であっても僧綱位にあった康慶を選ぶわけにもいかないため、運慶を選んだのだという説が有力。 |
伊豆の国市の願成就院は、北条時政が頼朝の奥州征伐の戦勝を祈願して建立。 2013年(平成25年)、運慶の真作とされる阿弥陀如来像・不動三尊像・毘沙門天像・こんがら童子像・せいたか童子像が国宝に指定されている。 運慶の仏像 (願成就院の運慶の真作) |
横須賀市芦名の浄楽寺は、鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛が建立したと伝わっている。 阿弥陀三尊像・不動明王像・毘沙門天像は運慶の真作。 毘沙門天像の胎内にあった銘札から、運慶が義盛と夫人のために造立したことが判明している。 義盛の阿弥陀三尊の発願は、奥州遠征勝利祈願のためともされているが、願成就院を建立した北条時政への対抗からともいわれる。 運慶の仏像 (浄楽寺の運慶の真作) |
横浜市金沢区の称名寺は、北条実時の持仏堂がはじまりとされている。 塔頭光明院の大威徳明王像は、源実朝の養育係だった大弐局の発願で、1216年(建保4年)、最晩年の運慶によって造立された貴重な仏像。 六浦の瀬戸神社に伝わる舞楽面は源実朝愛用の面とされ、運慶の作ではないかと考えられている。 |
勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。 1219年(承久元年)12月、北条政子は、この年の正月に暗殺された源実朝の冥福を祈るため勝長寿院に五仏堂を建立し、運慶の五大尊像を安置している。 |
永福寺は、源頼朝が弟源義経と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために奥州平泉の寺院を模して建立した寺院。 永福寺跡の発掘調査では、運慶作の仏像の荘厳金具と似たものが出土していることから、永福寺にも運慶の仏像があったものと推測されている。 |
運慶作とされる仏像は数多く存在するが、専門家によって「運慶の仏像」と断定・推定されているものは20体に満たない。 |
北円堂 |
南円堂 |
興福寺の北円堂の「弥勒菩薩坐像」「無著・世親菩薩立像」は運慶一門の造立。 南円堂の「不空羂索観音菩薩像」「法相六祖坐像」「四天王立像」は運慶の子康慶らの造立。 |
東大寺南大門の「金剛力士(仁王)像」は、造高8メートルにおよぶ巨像で、最近の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)らが2か月で造立したものであることが判明している。 東大寺大仏殿の脇侍と四天王像も、運慶とその一族によって造立されたものであったという。 文覚の依頼により東寺の諸仏修造にも携わっている(参考:東寺講堂)。 |
東大寺南大門 |
東大寺大仏殿 |
東寺 |
講堂 |
瀧山寺は、源頼朝の従兄・寛伝が住持した寺。 聖観音菩薩及び両脇侍〈梵天・帝釈天〉像は、1201年(正治3年)、寛伝が頼朝の三回忌に運慶とその長男湛慶に造立させたものと伝えられています。 |
鎌倉には、運慶作と伝わる仏像は数多く存在するが、運慶の真作として確認されているものはない。 『吾妻鏡』によると、源実朝の持仏堂「釈迦如来像」、北条義時の大倉薬師堂「薬師如来像」、勝長寿院「五大尊像」が運慶作であったのだという。 |
光触寺 | 阿弥陀如来像 |
杉本寺 | 十一面観音像 |
地蔵菩薩像 | |
仁王像 | |
教恩寺 | 阿弥陀三尊像 |
延命寺 | 地蔵菩薩像 |
補陀洛寺 | 日光・月光菩薩像 |
来迎寺 | 阿弥陀三尊像 |
英勝寺 | 阿弥陀三尊像 |
圓應寺 | 閻魔大王像 |
壽福寺の銅造薬師如来坐像は、北条政子が鶴岡八幡宮の神宮寺の本尊として造立した可能性が高く、興福寺の北円堂に安置されている国宝の弥勒仏坐像に通じるものがあるという。 |
辻の薬師堂の戌神像は、北条義時が建てた大倉薬師堂の戌神像(運慶作)の模刻と考えられている。 |
平重衡の南都焼討によって焼失した興福寺や東大寺の復興に貢献した運慶。 平家滅亡後は東国の武将と交流することで、それまでの貴族的な仏像から力強い仏像が造り出されていった。 鎌倉様式ともいわれる運慶の仏像は、重量感と力強さがあって写実性に富んでいるといわれている。 運慶は、1223年(貞応2年)に亡くなったと伝えられているが、運慶没後も鎌倉では多くの慶派の仏師が活躍し、明王院の不動明王像は運慶の次男康運だとする説がある。 宋文化が流入すると慶派の仏師たちによって仏具などが作られるようになった。 建長寺の須弥壇や円覚寺の前机などが知られているが、こういった技術は、現在も伝統工芸品「鎌倉彫」に生かされている。 |
黒漆須弥壇 (建長寺) |
前机 (円覚寺) |
鎌倉彫は、宋の工人陳和卿が持ってきた彫漆工芸を運慶の次男康運が真似て作ったのが始まりなのだという。 |
鎌倉大仏は、運慶らの慶派の作風を保ちつつ、鎌倉で流行った宋の様式を取り入れた仏像。 |
圓應寺の木造初江王坐像は、運慶の慶派の流れと宋風の文化とが混じった様式で、東国に残る鎌倉彫刻中でも屈指の優品。 |
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