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「運慶願経」(うんけいがんぎょう)は、奈良仏師・運慶の発願によって書写された法華経八巻。 巻一は失われたが、巻二から七は京都の真正極楽寺(真如堂)に伝えられ、巻八は個人蔵として伝えられている。 いずれも、運慶に関わる重要な資料として国宝に指定されている。 |
写本の終わりに筆者の名・由来などを書き付けた「奥書」によると・・・ 発願したのは安元年間(1175年〜1177年)で、1183年(寿永2年)に阿古丸という女性の援助により完成させたのだという。 快慶をはじめとする慶派仏師の名も連ねられ、経を巻く軸木は1180年(治承4年)の南都焼討で焼失した東大寺の残木を使用し、墨を磨る水は比叡山横川・園城寺・清水寺の霊水を使用したことも記されている。 寿永2年は、南都焼討から3年後。 南都焼討では、運慶ら慶派仏師が拠点としていた興福寺も焼かれた。 「運慶願経」には、南都復興を願う運慶らの心構えが込められている。 |
援助した阿古丸とは? |
「運慶願経」を援助した阿古丸は、 運慶の妻ともいわれるが・・・ 一説によると、源義経が元服した地という鏡宿の「傀儡女」(くぐつめ・人形遣い)を束ねていた女性で今様の名人だったのだという。 今様を好んだ後白河法皇に招かれた際に運慶と出会い、東大寺の復興を願う運慶の思いに賛同して経済支援を行ったのだとか。 そして、「運慶願経」は、後白河法皇ゆかりの法住寺付近で書かれた。 参考までに、運慶の長男・湛慶の幼名は「阿古丸」だったらしい。 湛慶は、のちに後白河法皇が創建した蓮華王院(三十三間堂)の本尊・千手観音坐像を制作している。 |
南都焼討後の東大寺の復興は、後白河法皇の支援の下で始められ、後白河法皇が崩御した後は、源頼朝が最大の支援者となって進められた。 |
南都復興を願う運慶は・・・ |
1194年(建久5年)から翌年にかけて東大寺南中門二天像の西方天を担当し、1196年(建久7年)には、父の康慶、快慶・定覚らとともに東大寺大仏殿の如意輪観音、虚空蔵菩薩と四天王像の造立に携わっている。 これらの像は、戦国時代の松永久秀の兵火により現存していないが、1203年(建仁3年)に造立された東大寺南大門の金剛力士像は、運慶が総指揮をとったもので現存している。 そして、晩年に手掛けたのが興福寺北円堂の造仏。 現存しているのは弥勒仏と無著・世親像のみだが、運慶一門が造立したのは、弥勒仏及び両脇侍像、四天王像、無著・世親像だったのだという。 |
東大寺南大門の「金剛力士(仁王)像」は、造高8メートルにおよぶ巨像で、最近の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)らが2か月で造立したものであることが判明している。 運慶は、南大門の金剛力士像造立の功績により、僧綱の極位である法印に任ぜられた。 |
北円堂は、興福寺開基の藤原不比等の一周忌に建立された堂。 |
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