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三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は、1164年(長寛2年)、後白河上皇が平清盛に資材協力を命じて創建した寺院(12月17日落慶)。 後白河上皇の院御所「法住寺殿」の一画に建てられた。 正式名称は「蓮華王院」で、その本堂に当たるのが三十三間堂(国宝)。 創建時には五重塔も建てられ運慶の父康慶が造仏を任されたのだという。 1183年(寿永2年)、木曽義仲の焼き討ちに遭った蓮華王院は、1191年(建久2年)に源頼朝が修繕し、丈六の阿弥陀三尊を安置したが、1249年(建長元年)に発生した市中の火災により焼失。 1266年(文永3年)、後嵯峨上皇によって本堂(三十三間堂)のみが再建されている。 桃山時代には、豊臣秀吉が方広寺を建立したことにより、三十三間堂や後白河天皇法住寺陵もその境内に含まれることとなったが、豊臣家滅亡後は東山七条の西にある妙法院の管理下に置かれ、現在も境外寺院となっている。 三十三間堂の名の由来は、内陣の柱間が「33」あるためで、この数は、「観音菩薩が33の姿に変じて衆生を救う」と説かれていることによる。 |
法住寺殿は、に後白河上皇の院庁として造営され、蓮華王院は院庁の南殿に建立された。 |
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院庁内には、延暦寺の日吉社と熊野三山から新日吉社と新熊野社が勧請されていた。 |
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三十三間堂の本尊は、奈良仏師・湛慶(運慶の子)が制作した木造千手観音坐像。 その両側の階段状の仏壇には、1000体の「木造千手観音立像」が安置され、本尊背後にも1体の「木造千手観音立像」が置かれている。 堂の左右の端には、「木造風神像」と「木造雷神像」が、千体像の前には千手観音の眷属である「木造二十八部衆立像」が置かれている。 |
1164年(長寛2年)創建時の三十三間堂の造仏は、奈良仏師の康助が指揮したのだといわれている。 1178年(治承2年)には五重塔が建立されているが、その造仏を任されたのは運慶の父康慶。 奈良仏師が拠点としていた興福寺の南円堂の諸像は、康慶一門によるもの。 |
![]() 運慶坐像 |
![]() 湛慶坐像 |
現在の本尊を制作した湛慶は、康助から四代目の大仏師(康助→康朝→康慶→運慶→湛慶)。 運慶・湛慶父子の像は、六波羅蜜寺で拝観することができる。 |
頭痛に悩まされていた後白河上皇は、因幡堂の薬師如来のお告げで、頭痛を治すことができたのだとか。 |
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三十三間堂の南大門は、方広寺の南大門として建立されたもの。 東寺の南大門は、方広寺の西大門として建立されたもので、1895年(明治28年)、東寺に移築された。 |
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法然塔は、法然の事績を記念するもの。 夜泣泉(よなきせん)は、三十三間堂創建の翌年に発見されたという伝説の泉。 |
三十三間堂の「通し矢」は、16世紀(桃山時代)に始まったといわれ、江戸時代に大流行した。 特に尾張・紀州の天下一争奪戦は評判となった。 最高記録は1686年(貞享3年)4月27日、「大矢数」(おおやかず)という競技に出場した紀州藩の和佐大八郎という18歳の青年で、一昼夜で13053本の矢を射て8133本を通したという。 現在は通し矢は行われておらず、古儀にちなんだ「弓道大会」が開催されている。 |
![]() 法住寺陵 |
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蓮華王院を創建した後白河上皇は、1192年(建久3年)3月13日、六条殿(長講堂)で崩御(66歳)。 法住寺殿の一画に建てられた法華堂に葬られた。 法住寺は、後白河法皇の陵墓を守護してきた寺院。 |
京都市東山区三十三間堂廻町657 JR京都駅から市内循環バス 「博物館三十三間堂前」下車すぐ。 |
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