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後白河法皇の法住寺殿
〜蓮華王院三十三間堂〜

編集:yoritomo-japan.com







三十三間堂法住寺殿
法住寺殿址碑


 1158年(保元3年)に子の二条天皇に譲位した後白河上皇の院庁として造営されたのが法住寺殿(ほうじゅうじどの・1161年(永暦2年)完成)。

 その敷地は、東山の麓から西は鴨川河岸、南北は八条坊門小路から六条大路(六条通り)に及ぶ広大なもので、境内は、政治的施設の「北殿」と、「常の御所」と呼ぶ住居に宗教的施設が付設された「南殿」とに分かれていた。

 蓮華王院は、「常の御所」の西隣に建立されている。

 そのため院庁は「蓮華王院御所」とも呼ばれていた。

 1161年(永暦2年)、法住寺殿に入った後白河上皇は、以後約20年にわたって、南殿を住居として院政を行った。

 しかし、1183年(寿永2年)に木曽義仲の夜襲で南殿に火がかけられるが、三十三間堂は奇跡的に難を免れたのだという。


 1978年(昭和53年)に行われた発掘調査では、鎧、弓矢、馬具などが他に類例のない遺構が発見された。

 一説によると平重盛の墓ともいわれている。

 2010年(平成22年)から行われた鎌倉の下馬周辺遺跡の発掘調査では、法住寺殿に続いて2例目となる中世以前の鎧が発掘されている。



〜源頼朝の方住寺殿再建〜

 源頼朝上洛した翌1191年(建久2年)に法住寺殿の修理を行っている。

 よく法住寺殿は木曽義仲の焼討にあったとされるが、『吾妻鏡』よると義仲は放火していないのかもしれない・・・

 リンクボタン後白河法皇の院御所「法住寺殿」の再建





法住寺殿
法住寺殿略図


 後白河法皇は、1155年(久寿2年)に第77代天皇に即位するが、わずか3年の在位で二条天皇に譲位。

 以後、二条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の時代に政治の実権を握り院政を行った。

 保元の乱以降に台頭してきた武家勢力を種々の権謀術数で抑え、のちに源頼朝からは「日本国第一の大天狗」と評されている。

 晩年は仏教を信奉し、東大寺大仏再建に積極的に取り組んだ。

 また、今様を愛好し、その集大成としての『梁塵秘抄』は、法皇が自ら撰したもので、文化的にも大きな足跡を残している。

 1192年(建久3年)3月13日、六条殿で崩御。

 陵墓は法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)。


後白河法皇


リンクボタン源頼朝が鎌倉で行なった後白河法皇の法要



法住寺
リンクボタン法住寺

 法住寺は、藤原為光によって創建された寺院で、後白河法皇の法住寺殿は、この寺を中心に営まれていた。

 江戸時代まで後白河法皇の御陵を守る寺として存続したが、明治に入って寺と御陵が分離されている。

 親鸞が自分の姿を刻んだという「そば食い像」と呼ばれる木像が安置されている。







歴史めぐり源頼朝



三十三間堂
リンクボタン三十三間堂

 三十三間堂は、後白河上皇が院御所内に創建した蓮華王院の本堂。
 堂内には、本尊の千手観音坐像をはじめ、1001体の千手観音立像、風神・雷神像、二十八部衆立像などが安置されている。


京都市東山区三十三間堂廻町657

JR京都駅から市内循環バス
「博物館三十三間堂前」下車すぐ。



三十三間堂と法住寺
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。



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