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1156年(保元元年)7月に起こった「保元の乱」は、皇位継承問題などの朝廷内の内紛から起こったもので、後白河天皇と崇徳上皇の分裂に、源氏と平氏の武力が加わった政変です。 この乱で活躍したのが、後白河天皇方についた源頼朝の父義朝です。 (※義朝の父為義と弟為朝は、崇徳上皇方について戦っています。) 7月11日未明、戦いの火ぶたが切られました。 崇徳上皇方は、為朝が自慢の強弓で奮戦しますが、義朝の作戦に従った後白河天皇方は、崇徳上皇の白河殿を襲撃して勝利をおさめています。 その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、為義は斬首、為朝は伊豆大島に流されています。 (※平清盛は、義朝とともに戦っています。) |
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「悪縁切り」のご利益で知られる京都の安井金比羅宮は、保元の乱後讃岐に流され、8年後の1164年(長寛2年)に亡くなった崇徳上皇を祀る神社。 後白河法皇の命によって建立された光明院観勝寺が起こりだと伝えられている。 |
義朝の第一の郎党鎌田政清 |
のちに、頼朝が挙兵した際に活躍する佐々木四兄弟の父佐々木秀義(参考:相模の武将渋谷重国) |
為朝の矢を足に受けて負傷した大庭景義 |
のちの石橋山の戦いで頼朝に敵対した大庭景親 |
この他、上総介広常、千葉常胤、河越重頼、八田知家など、のちの頼朝の挙兵に参じた武将が従っています。 |
1159年(平治元年)12月の「平治の乱」は、「保元の乱」によって生まれた新たな朝廷内での対立から起こります。 「保元の乱」後、後白河天皇は天皇親政を行います。 その下で権勢を誇ったのが信西でした。 しかし、後白河天皇が皇位を二条天皇に譲ると、信西と藤原信頼が対立します。 一方、源氏と平氏の間でも、保元の乱での勲功第一のはずの源義朝より、戦功の薄い平清盛の方がはるかに高い恩賞を受けていたことで、義朝の不満が増大していました。 そして、信頼らの反信西派と義朝が結びついて起こされたのが「平治の乱」です。 信頼と義朝は、清盛が熊野詣に出掛けている隙に、後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西邸を襲撃します。 これによって信西は梟首されました。 しかし、清盛は急ぎ帰洛し、二条天皇を六波羅邸に移して、信頼・義朝追討の宣旨を賜り、信頼と義朝を破ります。 勝利した清盛は、参議正三位に列せられ、一族も多くの恩賞を賜りました。 この戦いが、これから始まる平氏政権の基礎築くことになります。 |
藤原信頼と結んだ源義朝は、後白河上皇の三条殿を襲撃。 三条東殿遺址は、平治の乱勃発の地。 |
一本御書所は、後白河上皇が幽閉された施設。 |
六波羅蜜寺の境内には、平清盛をはじめとする平家一門の屋敷が建ち並んでいました(六波羅館)。 のちに鎌倉幕府が朝廷を監視するために設置した六波羅探題の役所は、平清盛邸を改築したもの。 |
平治の乱後、源義朝の側室常盤御前は、今若(阿野全成)、乙若(源義円)、源義経(牛若)連れて幼少の頃より信仰していた清水寺に参り、千手観音(子安塔)に三人の子の無事を祈願したという。 『平治物語』(学習院本)には、常盤と三人の子が助けられたのは清水観音の力によるもので、源頼朝が死罪を免れて伊豆蛭ヶ小島に流罪となったのは八幡大菩薩(石清水八幡宮)の力によるものだと述べられている。 |
![]() (清水寺) |
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配流地の伊豆へ赴く頼朝が源氏再興を祈願したという社。 |
奥津嶋神社は、琵琶湖最大の沖島に鎮座する社。 沖島の住人の先祖は保元・平治の乱で敗れた源氏の落武者7人なのだという。 奥津嶋神社の神紋はササリンドウ。 |
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「平治の乱」は、源頼朝にとって初陣でした(13歳)。 源家重代の「源太産衣」という鎧を着用し、「髭切」(ひげきり)という太刀を帯びての出陣だったと伝えられています(「髭切」は京都の北野天満宮が所蔵(一条戻橋の伝説))。 しかし、結果は源氏の大敗に終わり、父義朝とともに東国に逃れて再起を果たそうとしますが、頼朝はその一行とはぐれ、平頼盛の追手によって捕らえられます。 一方、父義朝は、尾張国野間で長田忠致に暗殺され、兄の義平・朝長も討死しました(参考:源義朝最期の地)l。 清盛は、頼朝を処刑するよう命じますが、清盛の継母池禅尼の懇願によって一命を助けられ、伊豆国へ流されます(参考:蛭ヶ小島)。 弟の希義・今若(全成)・乙若(義円)・牛若(義経)もそれぞれ地に流されています。 |
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