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源義朝は、河内源氏の棟梁。 熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前を正室とし、鎌倉幕府を開いた源頼朝をもうけた。 1159年(平治元年)、頼朝とともに出陣した平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、東国へ逃れる途中、尾張国野間に立ち寄り、郎党の鎌田政家(政長・政清)の舅・長田忠致のもとに身を寄せるが、恩賞が欲しい忠致・景致父子によって入浴中に襲撃され最期を遂げた(1160年(平治2年)正月3日 享年38歳)。 この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言い残したという。 そのため野間大坊(大御堂寺)の義朝の墓には木太刀が供えられている。 1190年(建久元年)10月25日、頼朝は上洛の途上、尾張国須佐ノ浦の御家人・須細治部大夫爲基の案内で父・義朝の墓を参拝している。 |
※ | 正月3日、入浴中に殺害された義朝の首は、ともに殺害された鎌田政家の首とともに京へ送られ、正月9日に獄門にかけられた。 |
※ | 義朝の子頼朝は、東国へ逃れる義朝に従っていたが、途中ではぐれてしまったため助かっている。 その後、頼朝は平家の追手に捕えられたが、助命され伊豆国の蛭ヶ小島に流された。 |
御湯殿跡 (法山寺) |
血の池 (野間大坊) |
御湯殿は義朝が暗殺された所。 殺害された義朝の首は血の池で洗われたのだという。 |
源頼朝を匿った草野定康 たった八騎で都を落ちた源義朝 源義朝を暗殺した長田忠致 常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸 源頼朝の上洛 |
1185年(文治元年)、源頼朝は、父義朝の菩提を弔うため鎌倉に勝長寿院を建立。 後白河法皇に依頼して探し出した義朝と政家の髑髏(しゃれこうべ)を、9月3日、勝長寿院の廟所に葬った。 勝長寿院は廃寺となったが、その跡地には義朝と政家の五輪塔が残されている。 |
源義朝の遺骨が葬られた勝長寿院(okadoのブログ) |
池禅尼は平清盛の継母。 1159年(平治元年)の平治の乱に敗れて捕えられた源頼朝は、義朝の嫡男であったことから処刑される運命にあったが、清盛は池禅尼の助命嘆願により、頼朝を伊豆国の蛭ヶ小島に流罪としたと伝えられている。 |
鎌田政家(政清・政長)は、相模国の鎌田通清の子(首藤氏の一族)。 義朝の第一の郎党。 政家の母は義朝の乳母を務めたことから、義朝とは乳兄弟と呼ばれた。 1159年(平治元年)、平治の乱で敗れると、東国で再起を図るため義朝ととも京を脱出し、尾張国野間の長田忠致を頼ったが、忠致の裏切りに遭い、義朝とともに殺害された。 隣には政家の妻の墓も建てられている。 政家の妻は、義朝と政家を殺害した長田忠致の娘。 政家の死を知ると川に身を投げ自害したと伝えられている。 政家の刀で自害したのだとも。 |
織田信孝は、織田信長の三男。 父信長が本能寺で討たれた後(本能寺の変)、総大将として明智光秀を倒した。 しかし、織田の後継者は、羽柴(豊臣)秀吉によって甥の三法師と決定され、秀吉と対立する柴田勝家に接近するようになる。 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家が北ノ庄城で自害すると、野間大坊(大御堂寺)に送られ自害させられた。 最期にあたり 「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」 と詠んだと伝えられている。 |
『吾妻鏡』によれば、平康頼は、1167年(仁安元年)、尾張守の代官として赴任したとき、荒れ果てていた義朝の墓に水田三十町を寄付して、小堂を建て、六人の僧に供養させたのだという。 鐘楼堂の背後に康頼の墓がある。 |
源義朝を殺害した長田父子は、源頼朝によって殺された。 |
愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ケ50 名鉄知多新線 野間駅から徒歩10分 |
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