鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 二代執権北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編



歴史めぐり源頼朝
〜たった八騎で都を落ちた源義朝〜








 『平治物語』によると・・・

 平治の乱で敗れた源義朝は、再起を図るため東国を目指しますが、

 瀬田で付き従っていた波多野義通・三浦義澄・斉藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平山季重・足立遠元・金子家忠・上総広常をはじめとする20人余りに暇を出して、別々にそれぞれの国へ下らせることとします。

 その後、義朝と一緒に落ち延びたのは、源義平、源朝長、源頼朝、源重成、平賀義信、鎌田政清、金王丸の僅か八騎でした。


 源義朝は、河内源氏・源為義の長男。

 河内源氏は、源義家の死後の内紛から衰えますが、義朝は東国を拠点に勢力を大きくし、1156年(保元元年)の保元の乱で戦功を挙げます。

 しかし、1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れ、東国へ落延びる途中の尾張国野間で、家臣の長田忠致の裏切り遭って殺害されました。


 源義平は、義朝の長男。

 母は三浦義明の娘とも言われますが、橋本の遊女であった可能性が高いようです。

 叔父の源義賢木曽義仲の父)を討ったことで悪源太と呼ばれました。

 平治の乱後、義朝とともに都を落ちします。

 その後、義朝と別れて東山道から東国を目指しますが、義朝の死を知ると都に戻って清盛の命を狙います。

 しかし、捕えられて六条河原で斬首されたのだと伝えられています(源義平の最期)。


 源朝長は、義朝の次男。

 母は波多野義通の妹とされています。

 相模国松田郷を領して松田冠者と呼ばれていました。

 平治の乱後、義朝とともに都を落ちしますが、大原の竜下越で落武者狩りに遭って負傷。

 その後、義朝一行は美濃国青墓宿まで辿り着き、東海道を進もうとしますが、負傷している朝長は同行を断り、義朝に頼んで殺してもらったのだと伝えられています。


 源頼朝は、義朝の三男。

 母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前

 母の家柄から嫡子として育てられ、初陣の平治の乱では、源氏重代の「源太産衣」(げんたがうぶぎぬ)という鎧を着用し、「髭切」(ひげきり)という太刀を帯びての出陣だったと伝えられています。

 平治の乱後、義朝とともに都を落ちしますが、途中で一行とはぐれてしまいます。

 もし、はぐれていなかったら、義朝とともに尾張国野間で殺されていたのかも・・・

 その後、平家に捕らえられた頼朝は、池禅尼の嘆願などにより助命され、伊豆国へ流されました。


 源重成は、源頼光を祖とする美濃源氏。

 平治の乱後、美濃で落ち武者狩りに遭い、義朝の身代わりとなって自刃。


 平賀義信は、新羅三郎義光の四男。

 義朝が尾張国野間で長田忠致に殺害された後は、信濃へ落ち延びたと考えられています。

 後に頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると、その麾下に入り、源氏門葉として御家人筆頭となります。


 鎌田政清は、義朝の第一の郎党。 政長・政家などとも呼ばれています。

 政清の母は義朝の乳母だったことから二人は乳兄弟とも呼ばれていました。

 尾張国野間で長田忠致に討たれています。


 金王丸は、相模国渋谷荘を領していた渋谷重国の子とも弟ともいわれる人物。

 義朝が殺害されると愛妾・常盤御前にその死を伝え、その後出家して土佐坊昌俊と名乗ったのだとも。

 土佐坊昌俊は、後に頼朝の命で源義経を襲撃した人物です(参考:金王八幡宮)。



源義朝の墓
リンクボタン源義朝の墓
(愛知県知多郡美浜町:野間大坊)

 後に、挙兵して石橋山の戦いに敗れ、安房へ逃れた源頼朝は、八騎という数が源氏にとって不吉であるとして、八騎を七騎にして船出したのだと伝えられています(参考:城願寺の七騎堂)。



源義朝最期の地


源頼朝配流の地・北条氏発祥の地
(伊豆の国市)


髭切と膝丸〜源家重代の太刀〜




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源頼朝









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