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熱田神宮は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀った神社で、113年(景行天皇43年)の創建と伝えられる。 東国平定の際、伊勢神宮の倭姫命(やまとひめのみこと)に神剣を託された日本武尊(やまとたけるのみこと)は、その帰路、尾張に滞在して日宮簀媛命(みやすひめのみこと)を妃とし、神剣を妃のもとに留め置いた。 日本武尊が伊勢国能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛命は熱田の地に神剣を祀ったのだという。 それが熱田神宮のはじまりとされ、伊勢神宮に次ぐ宮として栄えた。 平安時代末、河内源氏の棟梁源義朝は、大宮司藤原季範の娘由良御前を正室とし、源頼朝を授かっている。 戦国時代には織田信長が祈願し、桶狭間の戦いに勝利した。 |
熱田大神 (あつたのおおかみ) |
天照大神(あまてらすおおみかみ) 素盞嗚尊 (すさのおのみこと) 日本武尊 (やまとたけるのみこと) 宮簀媛命 (みやすひめのみこと) 建稲種命(たけいなだねのみこと) |
※ | 熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を神体とする天照大神のこと。 |
尾張御器所城主・佐久間盛次の四男大膳亮勝之が、熱田神宮の守護により海難を免れたとして、1630年(寛永7年)に寄進した巨大燈籠。 高さ8.25メートル。 |
板石が25枚並んでいることから二十五丁橋と呼ばれ、名古屋で最古の石橋。 |
西行もこの石橋で休んだと伝えられている。 |
ア〜宮の熱田の二十五丁橋でエ〜 ア〜西行法師が腰を掛け 東西南北見渡して これ程涼しいこの宮を たれが熱田とヨーホホ ア〜アア名を付けたエ〜 トコドッコイ ドッコイショ |
弘法大師お手植えとされる古木。樹齢千年を超えるといわれている。 熱田神宮の境内にある特に大きな楠七本は「七本楠」と呼ばれ、古くから知られている。 |
熱田神宮大宮司藤原季範の娘・由良御前は、源義朝に嫁ぎ、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝を産んだ。 頼朝は熱田神宮を尊崇し、鎌倉の鶴岡八幡宮に熱田社を勧請したという。 |
源頼朝誕生地 (名古屋市:誓願寺) |
亀井水 (名古屋市:龍泉寺) |
熱田神宮の西側、伏見通沿いにある誓願寺は、大宮司藤原季範の別邸があった所とされ、由良御前は頼朝をここで生んだと伝えられている。 また、瑞穂区にある龍泉寺の門前には、頼朝の産湯の井と伝えられる「亀井水」が残されている。 |
『義経記』によると尾張は源義経の元服の地。 源頼朝の異母弟の義経は、預けられていた京都の鞍馬寺を抜け出し、奥州平泉の藤原秀衡のもとへ向かう途中で、熱田神宮大宮司を烏帽子親として元服したと伝えられている。 『義経記』が描く源義経の奥州下り なお、『平治物語』では東山道の鏡の宿を源義経元服の地としている。 |
1190年(建久元年)10月27日、上洛途上の源頼朝は、身を清めて熱田神宮を参詣。 1195年(建久6年)7月1日、二度目の上洛の帰路に熱田神宮を参詣し、馬や剣を奉納している。 |
上洛:権大納言・右近衛大将(歴史めぐり源頼朝) 上洛・東大寺大仏殿落慶供養(歴史めぐり源頼朝) |
寛伝は、熱田神宮大宮司藤原季範の孫。 源頼朝の母由良御前の兄・藤原範忠の子。 1182年(寿永元年)、頼朝に日光山満願寺(輪王寺)の座主に推挙されている。 その後は三河国の瀧山寺に入り、1201年(正治3年)には頼朝の三回忌法要を営んでいる。 |
輪王寺 |
二荒山神社 |
下野国(栃木県日光市)の輪王寺・二荒山神社と、徳川家康の廟所として開かれた東照宮の寺社群は、江戸時代まで日光山と呼ばれていた。 |
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