鎌倉手帳(寺社散策)

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戌神将二代執権 北条義時



歴史めぐり源頼朝
〜三種の神器と頼朝・範頼・義経〜







 『吾妻鏡』によれば・・・

 1185年(元暦2年)3月14日、源頼朝は九州にいる源範頼に使者を送り、平家追討に当たっては考えをめぐらせ、三種の神器と安徳天皇を無事に京都へお返しするよう命じています。

 ※三種の神器は歴代天皇が継承してきた鏡・玉・剣。

 鏡=八咫鏡(やたのかがみ)
 玉=八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
 剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)

 ※頼朝には平家を滅ぼす事の他、安徳天皇と三種の神器を取り戻すという使命がありました。



 3月24日、長門国赤間関壇ノ浦の海上で、源氏と平家の最後の戦いが行われました。

 昼頃になると平家の敗北が決定的となります。

 鎌倉軍としては、何としても三種の神器と安徳天皇を助けたいところでしたが・・・

 平清盛の妻時子が草薙剣を持って入水。

 安徳天皇は按察局に抱かれて海に沈んでいきました。


 4月5日、朝廷から、源義経に三種の神器を届けるよう命ずるための使者が発せられます。


 4月11日、鎌倉の頼朝のもとに、義経の報告書が届き、安徳天皇と草薙剣が海に沈んだことが知らされます。

 頼朝は報告書を握りしめながら、鶴岡八幡宮の方を向いて黙っていたそうです。

 ※言葉も出ないといった感じなのでしょうか。


 4月12日頼朝は、範頼に暫く九州に留まり平家から取上げた領地などの処理を命じてます。

 義経には、捕虜を連れて京都へ上がるよう命じています。


 4月24日、八咫鏡と八尺瓊勾玉が今津辺りに届き、藤原通資が取り行ったようです。

 この日、鎌倉には、範頼から三河守を辞任する旨の書状が届いています。

 ※安徳天皇と草薙剣を海に沈めてしまった責任からなのでしょうか。


 5月5日頼朝は、範頼に草薙剣を探し出すことと、概ね冬まで九州に留まり、戦後処理をするように命じました。

 また、御家人のなかに言うことを聞かない者がいても勝手に処分を下さず、頼朝に報告するように命じました。

 この命令には・・・

  「一年前に後白河法皇から範頼と義経が追討使に任命され、範頼は九州を、義経は四国に入って、それぞれの国々を管理するはずであったにもかかわらず、壇ノ浦で勝利した義経は、九州の管理の事まで奪い取って越権行為をし、言うことを聞かない者に対しては、頼朝にも伝えず、自ら処分していた」

 ということが理由にあるようです。

 ※頼朝の義経に対する怒りが頂点に達してしまったようです。



 その後、範頼は9月に九州を出発し、10月に鎌倉へ帰還。

  ※草薙剣は発見できず。

 その間、義経頼朝と対立し、11月には都落ちして九州を目指しますが、途中で難破し、その後は行方をくらまし、数年後、奥州平泉で自刃に追い込まれています。







 三種の神器は、天皇がその位を引き継ぐのに、なくてはならないものでした。

 崇神天皇の時に八咫鏡と草薙剣は外に安置されるようになりますが、そのため形代が作られ、以後はその形代を所持することが正統な帝であるという証になっていたようです。

 ※現在、八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮に安置されているようです。

 平家が安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちした後、後白河法皇は、安徳天皇の異母弟の後鳥羽天皇を即位させました。

 三種の神器がないままの即位でしたので、どうしても安徳天皇から後鳥羽天皇への三種の神器の引き継ぎが必要でした。

 しかし、安徳天皇と三種の神器の一つ草薙剣が海中に沈んでしまいます。

 これは鎌倉軍の大失態だったのでしょう。

 範頼はその重大さを理解していたようですが、義経には解らなかったようです。

 5月に義経は鎌倉へ凱旋しようとしますが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませでした。

 その時、義経が書いたという弁明書「腰越状」には、三種の神器の事は一切触れられず、父の義朝の敵を討ったことくらいしか記されていないようです。

 源平の戦いを義経は私闘にしてしまったようです。

 参考までに、頼朝の母・由良御前は、草薙剣を安置する熱田神宮大宮司の娘でした。


草薙剣


壇ノ浦古戦場
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太刀 菊御作
リンクボタン太刀 菊御作
(たち きくごさく)

 「菊御作」は、後鳥羽上皇自らが鍛えた太刀

 草薙剣が発見されなかったことで、後鳥羽上皇は刀剣に強い思いを持っていたといわれている。



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