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安徳天皇阿弥陀寺陵
〜赤間神宮〜


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安徳天皇阿弥陀寺陵


 赤間神宮の安徳天皇阿弥陀寺陵(あんとくてんのうあみだじのみささぎ)は、1185年(元暦2年)3月24日に崩御した安徳天皇の御陵。

 1889年(明治22年)、陵墓と決定された。



〜安徳天皇〜

安徳天皇
安徳天皇像
(京都泉涌寺蔵)


 安徳天皇は、1178年(治承2年)11月12日、高倉天皇の第一皇子として誕生。

 母は平清盛の娘の徳子(建礼門院)。


安徳天皇系図


 1180年(治承4年)4月22日に数え年3歳(満1歳4か月)で即位。

 即位して間もない6月2日、平清盛の遷都強行により福原へ行幸するが、 11月26日には京都に戻った。

 1183年(寿永2年)、木曽義仲をはじめとする平家包囲網が巡らされると、平宗盛以下の平家一門は安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちする。

 その後、安徳天皇は太宰府を経て屋島へ行幸。

 一時、一ノ谷へ遷るが、1184年(寿永3年)2月7日、平家軍が源範頼源義経の軍に敗北すると、再び屋島へ戻った。

 1184年(元暦元年)7月28日には、三種の神器がないまま後鳥羽天皇が即位し、二人の天皇が擁立されている。

 1185年(元暦2年)2月19日、源義経屋島を奇襲したことから、平家軍は安徳天皇とともに海上へと逃れる。

 そして、3月24日、壇ノ浦での源平最後の戦いで平家が滅亡。

 『平家物語』によると、安徳天皇は神璽と宝剣を身につけた二位尼(平時子)に抱かれ入水(数え年8歳(満6歳4か月)で崩御)。

 二位尼は「海の中にも都はございます」と幼い安徳天皇を慰めながら入水したのだという。

 三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保。

 宝剣は失われたとされているが定かではない。

 参考までに・・・

 『吾妻鏡』には、安徳天皇を抱いて入水したのは、二位尼(平時子:平清盛の妻)と建礼門院(平清盛の娘徳子)に仕えた按察局(あぜちのつぼね)だったと記録されている。


リンクボタン壇ノ浦の戦いと三種の神器と頼朝・範頼・義経


安徳天皇社
リンクボタン安徳天皇社
(屋島)





〜安徳天皇の母・建礼門院徳子〜

 安徳天皇の母は平清盛の娘徳子。

 徳子も平家一門とともに海に飛び込むが、助けられて都に戻り出家。

 5月に吉田の律師実憲の坊に入り、9月には大原の寂光院に入って、平家一門と安徳天皇の菩提を弔いながら終生を過ごしたのだいう。

 『吾妻鏡』によると、1187年(文治3年)2月1日、源頼朝は、平宗盛の所領だった摂津国真井と島屋の二庄を徳子に与えている。

 1213年(建保元年)12月13日崩御。


赤間神宮水天門
リンクボタン水天門

 赤間神宮水天門は、入水した安徳天皇が住んだという竜宮城をイメージした門。

 『平家物語』によると、徳子は竜宮城の夢を見たのだという。


寂光院
リンクボタン寂光院
(京都)

 寂光院は、壇ノ浦の戦い後、建礼門院徳子が隠棲した地。


建礼門院大原西陵
リンクボタン建礼門院大原西陵
(京都)

 大原西陵は、建礼門院徳子の陵墓。





〜源頼朝の前に現れた安徳天皇〜

 『北条九代記』や『保暦間記』によると、1198年(建久9年)12月27日、源頼朝は鎌倉の稲村ヶ崎で安徳天皇の怨霊と出会い、病気となって、翌年正月13日に亡くなったのだという。


稲村ケ崎
リンクボタン稲村ヶ崎


リンクボタン源義経や安徳天皇の怨霊が・・・








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赤間神宮
リンクボタン赤間神宮

山口県下関市阿弥陀寺町4-1

JR山陽本線「下関駅」からバス
「赤間神宮前」下車


壇ノ浦古戦場
リンクボタン壇ノ浦古戦場



壇ノ浦古戦場MAP
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