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運慶 興福寺北円堂



大原 寂光院

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寂光院


 寂光院(じゃっこういん)は、平家滅亡後に建礼門院(平徳子)が隠棲した地。

 徳子は平清盛の娘、高倉天皇の后、安徳天皇の母。

 『吾妻鏡』によると、1185年(元暦2年)、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門は、三種の神器と安徳天皇とともに入水。

 徳子も海へ飛び込むが助けられ、都に戻り出家。

 吉田の律師実憲の坊に入った後、寂光院に入って、平家一門と安徳天皇の菩提を弔いながら終生を過ごしたのだいう。

 『平家物語】によると、1186年(文治2年)、徳子の猶父・後白河法皇が寂光院を訪れ、徳子と再会しているのだとか。

 寂光院は聖徳太子の創建と伝わるが、草創についての詳細は不明

 本尊は地蔵菩薩。



寂光院


建礼門院御庵室跡
建礼門院御庵室跡


建礼門院使用井戸
建礼門院使用井戸


寂光院





〜建礼門院と大原〜

大原女
リンクボタン紫葉漬と大原女

 大原の名産「紫葉漬け」は建礼門院徳子が名づけたのだとか・・・

 大原女の衣装は建礼門院徳子に仕えた阿波内侍の仕事着を模したものなのだとか。



大原女
リンクボタン大原女
(時代祭)

 10月の平安神宮の大祭・時代祭では、大原女の行列も。





〜大原女のモデル・阿波内侍〜

 大原女のモデルとされる阿波内侍は、崇徳上皇に寵愛された女官で、藤原通憲(信西)の娘とも孫とも伝えられるが定かではない。

 悪縁切りで知られる安井金毘羅宮は、崇徳上皇が阿波内侍を住まわせた藤寺から始まる神社で、北側には、阿波内侍が崇徳上皇の遺髪を譲り受けて築いた塚がある(崇徳天皇御廟)。

 六波羅蜜寺六波羅弁財天は、崇徳上皇の夢告により造立されたもので、阿波内侍が自邸を寺にして祀っていたものなのだという。

 崇徳上皇亡き後、出家した阿波内侍は寂光院に入り、二代住持となったのだと伝えられ、建礼門院徳子の最期を看取ったともいわれる。





〜徳子の義妹・藤原輔子〜

 藤原輔子(大納言典侍)は、建礼門院徳子の弟平重衡の妻。

 安徳天皇の乳母を務め、壇ノ浦の戦いでは徳子らとともに入水するが助けられ、日野に隠棲。

 壇ノ浦の戦い後、夫の重衡が木津川で斬首されると、寂光院の徳子に仕え余生を送ったのだという。



平重衡の墓
リンクボタン平重衡の墓
(日野(醍醐))

 輔子の夫重衡は南都焼討東大寺興福寺を焼き払った武将。

 一ノ谷の戦いで捕らえられ、壇ノ浦の戦い後、南都衆徒に引き渡されて、木津川で斬首された。

 重衡の遺体は、妻の藤原輔子が日野の法界寺で荼毘に付し、日野に灰塚を築いて、骨は高野山に埋葬したのだと伝えられている。





〜建礼門院と安徳天皇の陵墓〜


建礼門院大原西陵
リンクボタン建礼門院大原西陵

 寂光院に隣接する大原西陵は、建礼門院徳子の陵墓。

 後鳥羽上皇と順徳上皇の大原陵に西にあることから大原西陵となったらしい。



安徳天皇阿弥陀寺陵
リンクボタン安徳天皇阿弥陀寺陵
(壇ノ浦古戦場)

 壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇は、阿弥陀寺(赤間神宮)に祀られ、阿弥陀寺陵が陵墓とされている。



壇ノ浦の戦い










寂光院
寂光院

京都市左京区大原草生町676

京都駅または国際会館駅から京都バスで大原下車 徒歩20分



大原
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