郡山城(こおりやまじょう)は、大和国(奈良県)にあった城。
1162年(応保2年)に郡山衆が築いた雁陣之城が前身といわれている。
1580年(天正8年)、織田信長から大和一国を任された筒井順慶が入城し、大規模な修築に着手。
1582年(天正10年)、信長が本能寺で明智光秀に討たれると(本能寺の変)、順慶は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従うこととし、秀吉からも大和一国を安堵され、翌年には天守閣が築かれたのだという。
1584年(天正12年)、順慶が死去。
翌1585年(天正13年)、家督を継いだ養子の筒井定次が伊賀上野城へ転封となり、代わって、秀吉の弟羽柴秀長(豊臣秀長)が大和国・和泉国・紀伊国三か国100万石の領主として入城。
大規模な修築が行われ、紀州根来寺の山門を移して城門とし、春日大社の水谷川から大石が切り出され、寺院の礎石・庭石・墓石・石地蔵なども石垣として用いられた。
100万石大名の秀長にふさわしい城という以外に、大坂城の防衛の城でもあったのだと考えられている。
1591年(天正19年)、豊臣秀長が死去。
さらに、跡を継いだ養子の豊臣秀保も1595年(文禄4年)に死去したため、増田長盛が入城して城下町を囲む総構えを構築。
しかし、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い後、長盛は高野山に追放され、徳川家康により郡山城の建築物のほとんどが伏見城に移築され、天守は二条城に移されたのだという。
1614年(慶長19年)、家康は筒井定慶を郡山城代に任じるが、翌年の大坂夏の陣の直前に豊臣方に攻められ、城下が焼かれる中、定慶は郡山城を放棄して逃亡(郡山城の戦い)。
間もなく大坂城が落城するが、定慶は逃亡したことを恥じて切腹したのだという。
大坂夏の陣後、水野勝成が入城し、幕府直轄のもとで修築が行われ、その後も徳川譜代の大名が入城。
1724年(享保9年)には柳沢吉里が入城して整備され、幕末まで続いた。
現在は「郡山城跡公園」として整備されている。 |