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本能寺の変は、1582年(天正10年)6月2日早朝、明智光秀が京都の本能寺に滞在中の織田信長を襲撃した事件。 この年3月、甲斐の武田勝頼を滅ぼした信長(甲州征伐)。 5月には、甲州征伐の功績により駿河を拝領した徳川家康と、甲斐国河内領と駿河国江尻領を安堵された穴山梅雪が信長の安土城を訪れている。 この時、饗応役を務めたのが明智光秀。 そうした中、備中の高松城を攻めていた羽柴秀吉からの援軍要請があったため、信長は5月29日に安土城を出陣。 京都の本能寺に入った。 光秀も秀吉支援を命じられていたが・・・ 6月1日、丹波亀山城を出陣した光秀は、途中で重臣を集めて謀反の意を表明。 翌6月2日未明、明智軍13000が本能寺を包囲。 近習100人程度しか従えていなかった信長は、光秀の謀反と知って「是非に及ばず」と言い残し自害したのだという。 |
※ | 信長とともに甲斐国の武田勝頼を滅ぼした家康は、駿河国を手に入れている。 |
※ | 穴山梅雪は、甲州征伐で武田を離反し信長に内通した。 |
光秀謀反の理由は、安土城での家康接待の際の不手際を信長に責められたからという説もあるが・・・ イエズス会宣教師のルイス・フロイスは、信長が光秀を足蹴りしたと伝えている。 しかし、謀反の動機を明らかにした史料は存在しない。 従軍していた本城惣右衛門が残した覚書によると・・・ 信長を討つこと知っていたのは一部の重臣のみで、雑兵らは皆、上洛していた家康を討つのだと思っていたのだという。 さらに京都へ向かうことのみで、目的地が本能寺であることも知らされていなかったらしい。 |
本能寺の変後安土城は焼失(理由は不明)。 その後、信長の嫡孫の秀信が入城するなど、織田家の居城として存続したが、1585年(天正13年)に廃城となった。 |
当時の本能寺は、現在地ではなく、四条堀川の辺りにあったのだという。 跡地には本能寺跡の碑が建てられている。 |
信長から家督を譲られていた長男の信忠は二条殿(二条御所)で自刃。 |
大雲院は信忠の菩提を弔うために建てられた寺。 |
夫の松平信康が切腹させられた後、近江で暮らしていた徳姫は、本能寺の変後、次兄の信雄・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・生駒氏・松平忠吉の保護を受けることに。 |
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本能寺の変が起こる前月、安土城を訪れてた家康は、信長の勧めで京都や大坂を見物し、帰国後、軍勢を整えて西国へ出陣する予定だったのだという。 しかし、信長は本能寺で横死。 信長の同盟者(清州同盟)だった家康は、知恩院で自害することを考えるが、徳川四天王のひとり本多忠勝に説得され、伊賀越えで三河国の岡崎城に帰還したのだという。 家康に同行していた穴山梅雪は、宇治田原で一揆の襲撃にあって殺害されている(諸説ある。)。 |
岡崎城は家康誕生の城。 少年期に今川氏の人質として駿府に出されたが、桶狭間の戦い後に岡崎城を奪還して三河国を統一。 その後、遠江国を得た家康は浜松城を本拠としている。 |
本能寺の変後、光秀は近江国の坂本城に入って近江を平定。 6月5日に安土城にはいり、6月8日には宮中に参内。 一方、備中で本能寺の変を知った秀吉は、毛利氏と和睦し、すぐさま京都へ引き返した(中国大返し)。 そして、6月13日、光秀は山崎で秀吉を迎え撃つことになるが・・・ 敗れて坂本城へ落ち延びる途中で落ち武者狩りに遭い、最期を遂げたのだという。 |
甲州征伐後、甲斐国を支配していた織田信長が横死すると、織田の遺領をめぐって天正壬午の乱が起こる。 乱後、甲斐国は徳川家康が領することとなる。 |
本能寺の変から100日後の10月10日、秀吉は大徳寺で信長の葬儀を執り行っている。 喪主は信長の四男で秀吉の養子となっていた秀勝。 一周忌までに信長の塔所として建てられたのが塔頭の総見院。 |
甲州征伐後、信長は甲斐善光寺の善光寺如来を美濃国の岐阜城下に移した。 善光寺如来は、武田信玄が信濃善光寺から移した絶対秘仏の尊像。 信長の横死は善光寺如来の祟りと噂されたらしい。 |
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