中世歴史めぐり

信濃善光寺の本堂
〜日本最古・
絶対秘仏の善光寺如来〜


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善光寺本堂


 善光寺の本堂は、創建以来11度の火災に遭い、その度再建されてきた。

 かつては、世尊院(釈迦堂)の向かいに建てられていた(旧如来堂跡)。
 世尊院には閼伽の水に使ったとされる花ヶ池(井戸)が残されている。

 現在の本堂は、11回目の火災後の1707年(宝永4年)の再建で、高さ約27メートル、間口約24メートル、奥行約53メートル。

 善光寺建築に特有の撞木造(しゅもくづくり)と呼ばれるもので、江戸時代中期の代表的な建築物。

 屋根は総檜皮葺。

 1953年(昭和23年)、国宝に指定されている(国宝に指定されている建築物では3番目に大きいといわれている。)。

 本尊は絶対秘仏の「一光三尊阿弥陀如来」(善光寺如来)。

 床下の回廊を巡る「戒壇巡り」は、「極楽の錠前」に触れることで、秘仏の御本尊と結縁を果たし、往生の際に迎えにきてもらえるといわれている。


善光寺本堂



〜善光寺如来〜

 善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」(善光寺如来)は、天竺から百済に伝えられたもので、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王から贈られた日本最古の仏像と伝えられる(三国渡来の仏像)。

 この年は、日本に仏教が伝来した年ともいわれるが、当時は仏教信仰に反対する勢力もあり、欽明天皇は賛成派の蘇我稲目に阿弥陀如来像を預けた。

 その後、疫病が流行ると反対派の物部尾輿らが稲目の建てた寺を焼き払い、阿弥陀如来像は難波の堀江に打ち捨てられた。

 それから50年後の602年(推古天皇10年)頃、信濃国司の従者として上洛した本田善光が阿弥陀如来像を発見し信濃に持ち帰ったのだと伝えられる。

 最初に祀られたのは現在の飯田市でその場所には元善光寺がある。

 現在地に遷座されたのは、642年(皇極天皇元年)。

 644年(皇極天皇3年)には伽藍が造営され、寺名を本田善光の名から「善光寺」とされた。


 『日本書紀』では日本最古の仏像は釈迦如来とされている。

 「一光三尊阿弥陀如来像」(善光寺如来)は、一つの光背の中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩の三尊が並ぶ独特な仏像。

 仏教伝来について、現在では、538年(宣化天皇3年)とする説が有力。

 善光寺如来は絶対秘仏のため、鎌倉時代に前立本尊が造立されて拝するようになった。御開帳の際には公開されるのは前立本尊。

 甲斐善光寺の本尊は、鎌倉時代に造立された信濃善光寺の前立本尊だったものと伝えられている。


善光寺本堂



〜源頼朝の参詣〜

 鎌倉時代の1197年(建久8年)、源頼朝善光寺参詣を行ったと伝えられている。

 鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には、頼朝善光寺を再建し、東大寺大仏殿落慶供養参列に続いて、善光寺の参詣を計画していたことが記されている(詳細は→駒返り橋)。


善光寺の駒返り橋
リンクボタン駒返り橋


 神奈川県葉山町にある新善光寺は、源頼朝が参詣した折に請来した善光寺如来を祀るため、名越朝時によって創建されたのだという。






〜女人救済の善光寺〜

 善光寺は女人救済の寺としても知られている。
 
 『平家物語』によると、源頼朝の命で平重衡に仕えた千手前は、重衡が東大寺の衆徒に引き渡されて処刑されると、出家して善光寺に入ったと伝えられている(参考:教恩寺の阿弥陀如来像)。

 『吾妻鏡』によると、仇討で知られる曽我兄弟の兄・十郎祐成の愛人・虎御前は、祐成の三七日の忌日に箱根権現で法事を行った後、出家して信濃の善光寺へ向かっている(参考:曽我兄弟と虎御前の五輪塔)。

 また、『曽我物語』は、祐成の弟五郎時致の遺骨を曼荼羅堂に納め、40年の勤行を終えて曽我の地で亡くなったと伝えている。

 1289年(正応2年)に鎌倉を訪れた『とはずがたり』の作者・後深草院二条は、翌年に念願の善光寺参詣を果たしている。

 「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれる延命地蔵尊は、江戸時代に放火による大火を出した八百屋お七の霊を慰めるために造立されたと伝えられている。



〜戦国期の善光寺如来〜

 戦国時代には、武田信玄上杉謙信との川中島の戦いが繰り広げられ、善光寺の焼失をおそれた信玄によって本尊が一時甲斐国に移された(甲斐善光寺)。


武田信玄と上杉謙信
リンクボタン川中島古戦場
甲斐善光寺
リンクボタン甲斐善光寺


 1582年(天正10年)、織田信長による武田征伐(甲州征伐)によって武田氏が滅亡すると岐阜へ移され、同年、本能寺で織田信長が討たれると、織田信雄が尾張へ、徳川家康が遠江、甲斐へと移し、1597年(慶長2年)には豊臣秀吉が甲斐から京都の方広寺に移した。

 翌1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が病に倒れると、善光寺如来の祟りだと噂され、死の前日になって信濃に戻されたのだという。

 秀吉の死の直前に善光寺如来が枕元に立ち、信濃に戻りたいと告げたのだとも伝えられている。


 戦国期の善光寺如来については、武田信玄が甲斐に移したされる一方で、善光寺の焼失をおそれたのは上杉謙信であって、謙信によって越後に移されたという説もある(浜善光寺)。

 善光寺如来が各地を転々とする間、大本願の尼僧は本尊に付き従い、大勧進の僧は本尊不在の寺地を守っていたのだという。





〜絶対秘仏〜

 善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」(善光寺如来)は、本堂瑠璃壇の厨子内に安置され、住職でさえ見ることができないという絶対秘仏。

 7年に一度の御開帳の際には、秘仏本尊の代わりに大勧進に安置されている「前立本尊」が本堂に遷座されて公開される。

 開帳期間中は本堂前に回向柱が建立され、前立本尊と回向柱が五色の「善の綱」で結ばれる。
 回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ御利益があるとされる。
 開帳は、開帳の年を1年目と数えるため、実際には6年に一度で丑年と未年に行われている。 


 1692年(元禄5年)には、無仏などの風聞が広まり、善光寺如来を検分させる使者が差し向けられ寸法を記録させたこともあったのだという。


善光寺回向柱
リンクボタン歴代回向柱



源頼朝像と信濃善光寺・甲斐善光寺(okadoのブログ)






歴史めぐり源頼朝



信濃善光寺
リンクボタン信濃善光寺

 信濃善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来像」は、三国渡来の絶対秘仏で、日本最古の仏像。
 鎌倉時代には源頼朝も参詣したと伝えられている。


長野県長野市元善町491

JR長野駅からバス「善光寺大門」下車。
善光寺大門から本堂まで徒歩15分。



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