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教恩寺の「木造阿弥陀如来及び両脇侍立像」は、1184年(寿永3年)の一ノ谷の戦いで捕らえられ、鎌倉へ送られてきた平重衡にゆかりのある像と伝えられている。 鎌倉時代のもので寄木造。 『新編相模国風土記稿』では、運慶作と紹介されているようだが、穏やかな衣文の表現などから快慶の作風が感じられるという。 源頼朝は、「一族の冥福を祈るように」とこの阿弥陀像を重衡に与えたのだとか。 |
平重衡は、平清盛の五男で、1180年(治承4年)の南都焼討で知られる武将。 鎌倉に送られてきた重衡の態度に感心した源頼朝は、重衡を客として厚遇した。 『吾妻鏡』によると、 侍女の千手前を差し出し、酒宴の席を設けさせ、工藤祐経が鼓をうち、千手前が琵琶を弾き、重衡は横笛を吹いて楽しんだのだという。 その酒宴には頼朝は同席していないが、後から楽しかったことを聞いた頼朝は、大いに残念がったのだとか。 |
南都焼討 |
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1180年(治承4年)12月25日、平清盛は東大寺・興福寺の反平家勢力を一掃するため重衡を南都に派遣。 12月28日、重衡は南都を焼討ちし、東大寺・興福寺を焼き尽くした。 東大寺の再興に奔走したのは俊乗坊重源。 後白河法皇の支援のもとで大仏が鋳造され、法皇亡き後は源頼朝が最大の支援者となった。 興福寺寺の南円堂や北円堂の諸仏は、南都焼討後に康慶・運慶父子によって制作された再興像。 |
一ノ谷の戦い |
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![]() とらわれの松跡 |
1184年(寿永3年)2月7日、平家一門は、源範頼と源義経に拠点としていた一ノ谷を攻められ、海上に逃れた。 重衡は、生田の森を守備していたが、梶原景時らに捕えられている。 ![]() |
木津川で処刑 |
1185年(元暦2年)3月、平氏が壇ノ浦で滅亡すると、重衡は、南都の強い要求により東大寺の使者に引き渡され、6月23日、木津川で処刑された(29歳)。 その後、千手前は北条政子に仕えていたようだが、重衡処刑から3年後の1188年(文治4年)4月25日、24歳で死去。 参考までに、 『平家物語』は、千手前は出家して信濃の善光寺で重衡の菩提を弔いながら亡くなったと伝えている。 |
安福寺の阿弥陀如来は、木津川で斬首された重衡が最後に拝んだ引導仏。 |
安福寺の十三重塔は、重衡の供養塔と伝えられている。 |
重衡の首は、奈良の般若寺に晒された後、妻の藤原輔子が胴体とともに京都日野の法界寺で荼毘に付し、日野に灰塚を築いて、骨は高野山に埋葬したのだと伝えられている。 |
教恩寺は、1678年(延宝7年)創建の時宗の寺。 秘仏の「聖観音菩薩像」は、鎌倉三十三観音の一つ。 |
鎌倉市大町1−4−29 0467(22)4457 |
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