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| 1180年(治承4年)5月30日、平清盛は、都を福原(現神戸市)に遷すことを発表し、6月2日には遷幸が強行されました。 その前年には、後白河法皇を幽閉し、娘徳子が生んだ安徳天皇を即位させ、平家による独裁政治を始めていた清盛でしたが、こうした行動は、貴族・寺社・武士からの反発を受け、全国的な反平家勢力の蜂起へとつながっていくことになります。 8月17日には源頼朝が挙兵。 伊豆国の目代山木兼隆を討ち取った頼朝は、相模国に進軍し、石橋山の戦いでは平家方の大庭景親らに敗れますが、真鶴から船出して安房へ渡り、軍勢を整えて、10月7日、鎌倉に入ります。 10月20日には、富士川で平家軍を敗走させました。 一方、福原遷都を強行した清盛は、11月23日、還都を発表し、26日には安徳天皇・後白河法皇をはじめ平家一門も京都に帰っています。 そうした情勢の中の1180年(治承4年)12月25日、清盛は、東大寺・興福寺の反平家勢力を一掃するため、平重衡を南都に向かわせ、28日には南都を焼き尽くしてしまいます。 この事件で 清盛は「仏敵」とされ、平家は四面楚歌の状態に置かれてしまいました。 | 
| 1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の第三皇子・以仁王が諸国の源氏に平家打倒の令旨を発します。 以仁王は討たれてしまいますが、8月17日には伊豆の源頼朝が挙兵。 以仁王の挙兵に味方した園城寺(三井寺)が頼朝にも味方するのではないと案じた平清盛は、12月11日、五男の重衡に園城寺を攻めさせました。 園城寺は焼かれ、金堂以下の堂塔は、ほとんど灰となってしまったのだといいます(※被害の程度は資料によって異なります。)。 | 
| 清盛は、南都の東大寺や興福寺に対しては、なるべく和平的に解決しようとしていたようですが・・・ 南都の大衆は、清盛が派遣した妹尾兼康の兵60余人の首を興福寺の猿沢池に並べたのだとか。 『平家物語』は、これが重衡の南都攻撃につながったと伝えています。 | 
 東大寺
東大寺| 東大寺の再興に積極的な助勢を行った頼朝は、のちの1195年(建久6年)に上洛し、大仏殿の落慶供養に参列しています。 | 
 転害門
転害門| 東大寺の転害門は、平重衡の南都焼討から免れた貴重な遺構。 | 

 東大寺南大門 金剛力士像
東大寺南大門 金剛力士像| 東大寺南大門は、南都焼討後に東大寺を復興した重源が、その総供養として再建したもの。 金剛力士像は運慶、快慶らが造立。 | 

 興福寺
興福寺| 興福寺は、南都再興で活躍した奈良仏師が拠点としていた寺。 | 
|  北円堂 |  南円堂 | 
| 興福寺の北円堂と南円堂には、運慶と父の康慶が南都焼討後に制作した再興像が安置されています。 | 
| 「運慶願経」は、運慶の発願により書写された法華経。 経を巻く軸木は、南都焼討で焼失した東大寺の残木が使用されています。 | 
| 興福寺北円堂は「運慶 祈りの空間」。 | 
| 焼討によって東大寺・興福寺を焼き払った平重衡は、1184年(寿永3年)2月、一ノ谷の戦いで捕えられ、鎌倉へ送られてきます。 | 
|  一ノ谷古戦場 (神戸市須磨区) |  平重衡 とらわれの松跡 (神戸市須磨区) | 
 教恩寺
教恩寺| 頼朝は「一族の冥福を祈るように」と重衡に阿弥陀像を与えたといわれ、鎌倉・教恩寺の阿弥陀像がそれだと伝えられています。 また、頼朝に気に入られた重衡は、侍女の千手の前を与えられ、工藤祐経が鼓を、千手の前が琵琶を、重衡が笛を吹くという酒宴が催されたといいます。 1185年(元暦2年)3月、平家が壇ノ浦で滅亡すると、重衡は南都に引き渡され、木津川で斬首されました。  平重衡と平宗盛 | 
 平重衡の供養塔
平重衡の供養塔| 安福寺の十三重塔は、木津川で斬首された重衡の供養塔と伝えられています。 | 
 平重衡の墓
平重衡の墓| 重衡の首は、奈良の般若寺に晒された後、妻の藤原輔子が胴体とともに京都日野の法界寺で荼毘に付し、日野に灰塚を築いて、骨は高野山に埋葬したのだか。 | 
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