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「平家越」は、富士川の古戦場。 富士川の戦いの折、平維盛が率いる平家軍が、水鳥の群れ立つ羽音に驚いて戦わずして敗走した場所と伝えられている。 |
1180年(治承4年)8月17日、伊豆に流されていた源頼朝は源氏再興の挙兵をし、目代の山木兼隆を討って相模国へ進軍するが、石橋山の戦いに敗れ、真鶴から海路安房国へと向かった。 |
安房国に上陸した頼朝は、千葉常胤、上総介広常、畠山重忠などを従えて、10月6日、相模国に入り鎌倉を本拠とする。 |
源頼朝船出の浜 (真鶴町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
頼朝が鎌倉に入って間もない10月13日、平維盛・忠度を大将とする東征軍が駿河国に進軍してくると、10月16日、
頼朝は鎌倉を出発。 このときの頼朝軍は20万騎だったと『吾妻鏡』は伝えている。 10月18日、黄瀬川に到着。 甲斐、信濃の源氏と北条時政の2万騎が頼朝軍に合流した。 10月20日、駿河国賀島に到着した頼朝は、平家軍と富士川を挟んで対峙するが、夜半、平家軍の背後に回ろうとした武田信義の軍勢に驚いた水鳥が一斉にとび立ったため、敵襲と勘違いした平家軍は戦わずして敗走しまったのだという。 頼朝の挙兵と甲斐源氏 |
鎧ヶ淵 |
御崎神社 |
諏訪神社 |
横割八幡宮 |
翌10月21日、頼朝は平維盛らを追って、ただちに上洛しようとするが、千葉常胤、三浦義澄、上総介広常らに「板東の統一が先」と主張され、黄瀬川へ引き返している。 この黄瀬川で弟義経との対面があった。 駿東郡清水町の八幡神社には、2人が腰を掛けたという対面石が残されている。 |
撤退した平家軍は11月5日に京都へ辿り着くが、平知度はわずか20騎、平維盛にいたっては10騎にも満たない兵を引き連れていただけだったという。 九条兼実は『玉葉』に・・・ 「追討使を承るの日、命を君に奉りおわんぬ。 たとえ骸を敵軍にさらすといへども、あに耻たるか。いまだ追討使を承るの勇士、いたずらに帰路に赴く事をきかず、もし京洛に入らば、誰か眼を合わすべき哉。不覚の耻、家にのこり、尾籠の名、世に留めるか。早く路より趾をくらますべきなり。さらに京に入るべからず」 と平清盛の激怒の様子を記している。 |
〜源頼朝の挙兵に敵対した大庭景親と伊東祐親輔〜 |
石橋山で頼朝を破った大庭景親だったが、頼朝が鎌倉に入ると形勢は逆転。 平維盛らが率いる東征軍が駿河国に入ると1000騎を率いて合流しようとするが、頼朝軍20万騎が足柄峠を越えて行ったため前途を塞がれ、10月18日、河村山に逃げ込んでいる。 富士川の戦いで平家軍が敗走すると、10月23日、頼朝に投降。 上総介広常に預けられた後、10月26日、相模国の片瀬の刑場で処刑された。 また、海上から平家軍に合流しようとした伊東祐親は、天野遠景に捕らえられ、三浦義澄に預けられた後、義澄の嘆願によって助命されたが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという(参考:鐙摺山)。 |
平家越の碑が建てられている吉原は東海道の14番目の宿場。 |
富士市新橋町11付近 JR吉原駅から岳南電車 「吉原本町」駅下車徒歩10分 |
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