源頼朝が鎌倉に入って間もない1180年(治承4年)10月13日、平維盛・忠度を大将とする東征軍が駿河国に入りました。 頼朝も10月16日、鎌倉を出発しています。 このときの頼朝軍は20万騎だったと『吾妻鏡』は記しています。 10月18日には黄瀬川に到着し、甲斐、信濃の源氏と北条時政の2万騎が頼朝軍に合流。 10月20日、駿河国賀島に到着した頼朝は、平家軍と富士川を挟んで対峙します。 しかし、この日の夜半、平家軍の背後に回ろうとした武田信義の軍勢に驚いた水鳥が一斉に飛び立ったため、敵襲と勘違いした平家軍は戦わずして敗走してしまったということです。 翌10月21日、頼朝は平維盛らを追って、直ちに上洛しようとしますが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らに板東の統一が先であると主張されたため、黄瀬川へ引き返しています。 この黄瀬川では弟義経との対面がありました。 |
平家越の碑 (富士市) |
頼朝・義経の対面石 (駿東郡清水町 ・八幡神社) |
鎧ヶ淵 (富士市) |
御崎神社 (富士市) |
諏訪神社 (富士市) |
横割八幡宮 (富士市) |
〜頼朝に敵対した 大庭景親と伊東祐親は・・・〜 |
この間、石橋山の戦いで頼朝を苦しめた大庭景親は、1000騎を率いて平家軍に合流しようとします。 しかし、10月18日、頼朝軍20万騎に前途を塞がれたため、河村山に逃げ込み、平家軍が敗走すると、10月23日、ついに降伏しました。 そして、上総広常に預けられた後、10月26日、片瀬で処刑されています。 また、海上から平家軍に合流しようとした伊東祐親は、10月19日、天野遠景に捕らえられ、三浦義澄に預けられています。 のちに義澄の嘆願によって助命されますが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶っています(参考:鐙摺山)。 |
伊東祐清は、流人時代の頼朝が伊東祐親に殺されそうになったときに、頼朝を逃したと伝えられている武将(参考:八重姫との恋)。 祐親とともに捕えられますが、頼朝は祐清を呼び出し、かつて命を救ってくれたことに対しての恩賞を与えようとします。 しかし、祐清は「父親が捕えられているのに、その子が恩賞を受けるわけにはいかない」として暇を請い、平家に味方するため上洛しています。 その後・・・ 『吾妻鏡』には、1182年(養和2年)2月15日に死刑を望み、頼朝は仕方なく誅殺したという記事が載せられています。 その一方で、1183年(寿永2年)6月の加賀国の篠原で木曽義仲と戦って討死したとも記されています。 |
波多野義常と山内経俊は、頼朝の挙兵に応じるどころか暴言を吐いて平家方に付いていました(山木館襲撃その1)。 波多野義常は、10月17日に追手を差し向けられ松田郷で自害。 山内経俊は、10月23日、大庭景親らとともに投降しています。 |
10月23日、頼朝は、相模国府で挙兵から初めての論功行賞を行いました。 北条時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総広常、和田義盛、土肥実平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、工藤親光、佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、宇佐美祐茂、市川行房、加藤景員、宇佐美実政、大見家秀、飯田家義以下の者にこれまでの領地を安堵し、あるいは、新しい領地を与えたりしています。 また、三浦義澄を「三浦介」に任命し、下河辺行平を「下河辺庄司」に任命します。 そして、大庭景親とともに投降してきた長尾為宗は岡崎義実に、長尾定景は三浦義澄に預けられ、河村義秀は河村郷を取り上げられ、身柄は大庭景義に、山内経俊は山内庄を取り上げられ、身柄は土肥実平に預けられました。 |
六所神社は相模国総社。 頼朝は富士川の戦いに際し、六所神社で戦勝祈願を行ったという。 |
義経との涙の対面 明暗が分かれた大庭兄弟 法華経に救われた長尾定景 母の哀訴で許された山内経俊 |
鶴岡八幡宮の遷宮 |
佐竹征伐 |
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