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長尾定景は平安末から鎌倉にかけて鎌倉郡長尾庄(現在の横浜市戸塚区)を本拠とした武将。 鎌倉権五郎景政を祖としているといわれる坂東平氏。 参考までに・・・ 坂ノ下の御霊神社は、大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という坂東平氏五家の先祖をまつる五霊神社を始まりとしているのだという。 生没年は不詳。 |
高望王流桓武平氏 |
1180年(治承4年)、伊豆で源頼朝が挙兵すると、定景は大庭景親につき、石橋山の戦いでは岡崎義実の子佐奈田与一義忠を討ち取った。 ※定景と景親は従兄弟。 しかし、頼朝が鎌倉に入ると形勢は逆転し、大庭景親とともに捕らえられた。 景親は処刑されたが・・・ 定景は三浦義澄に預けられた後、岡崎義実に引き渡され、定景の命は義実に預けられた形となった。 ただ・・・ 義実は、毎日法華経を唱えている定景をみて、息子を殺した罪を許したのだという。 翌年、義実の計らいで助命された定景は、三浦氏の家臣として仕えることに。 法華経に救われた長尾定景 |
1219年(建保7年)1月27日、三代将軍源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されると、三浦義村の命により公暁を討ち取った。 |
定景が討ち取った公暁の首は、定景とともに公暁追討を命ぜられた武常晴が拾い上げ、三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼って埋葬したのだと伝えられている。 |
1247年(宝治元年)に起こった宝治合戦で、定景の子景茂が三浦泰村に味方して敗れ、景茂は泰村とともに源頼朝の法華堂で自刃した。 長尾城も北条時頼軍に攻められ、長尾氏は滅亡している。 |
北条泰時死後の政局と北条時頼〜宝治合戦〜(okadoのブログ) |
上杉謙信は越後の守護代長尾為景の子。 宝治合戦で滅亡した長尾氏の生き残りは、後に上杉氏に仕え、上杉氏と婚姻関係を結び、上杉氏が関東管領として勢力をもつようになると、家宰や守護代として各地で活躍した。 謙信は、そのうちの越後長尾氏から出た武将。 したがって、長尾定景は謙信の祖といわれている。 |
久成寺は、1520年(永正17年)創建の日蓮宗の寺。 長尾定景一族の墓は、長尾城の陣場跡から移されたものだという。 |
鎌倉市植木494 0467(46)2837 大船駅西口よりバス 久成寺下車 |
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