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公暁悲劇の道

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公暁悲劇の道


 建長寺塔頭回春院から奥の天園ハイキングコースへと続く道を入っていくと、「公暁悲劇の道」と呼ばれる古道がある。

 この道の先は鶴岡八幡宮の裏山(今は、途中で道がなくなってしまっている。)。

 1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮で叔父で三代将軍の源実朝を暗殺した公暁(くぎょう・こうきょう)。

 その後、三浦義村邸へと向かうため、公暁が使ったのがこの道なのだとか・・・


「公暁」の読み方については「くぎょう」とされてきたが、近年では「こうきょう」もしくは「こうぎょう」と読むのが正しいとされているらしい。





〜 公 暁 〜

 公暁は、1200年(正治2年)、二代将軍源頼家の次男として誕生。

 母は辻殿(賀茂(足助)重長の娘:源為朝の孫)。

 幼名は善哉(ぜんざい)。

 乳母夫は三浦義村

 祖父の重長は尾張源氏山田氏の一族で、兄の山田重満は1181年(治承5年)の墨俣川の戦いで討死し、重長も捕らえられて殺害されたのだといわれる。

 のちの承久の乱で朝廷側に参じることとなる山田重忠は、辻殿の従兄妹にあたる。

 父の頼家は、1203年(建仁3年)9月、将軍職を廃されて伊豆修禅寺に幽閉された後、翌年、北条氏によって暗殺されている(比企氏の乱)。


比企一族の墓
リンクボタン比企一族の墓
(妙本寺)
源頼家の墓
リンクボタン源頼家の墓
(伊豆修禅寺)


 その後の善哉は・・・

 『吾妻鏡』によると・・・

  1205年(元久2年)12月2日、北条政子の計らいで鶴岡八幡宮別当の尊暁の弟子となる。

 1206年(建永元年)6月16日、政子邸で「着袴の儀」が行われ、三代将軍源実朝(善哉の叔父)も参列。

 同年10月20日には、政子の命により実朝の猶子となり、はじめて御所に入った。

 このとき、乳母夫の三浦義村は贈り物を献上。

 1211年(建暦元年)9月15日、鶴岡八幡宮別当の定暁のもとで出家。

 法名は公暁。

 翌日には定暁に伴われ、受戒のため上洛。

 修行のために入った園城寺では、公胤僧正の弟子となり、「悪別当」と呼ばれていたのだという。


園城寺(三井寺)
リンクボタン園城寺
(滋賀県大津市)





〜善哉→頼暁→公暁〜

 『吾妻鏡』には、出家した時に「公暁」を名乗ったように記されているが、園城寺に入って公胤の弟子となってから「公暁」を名乗ったとする説がある。

 また、公暁の名は、師の公胤と貞暁からとられたとする説がある。

 これは、実朝暗殺時の『吾妻鏡』の記述に、公暁が「公胤僧正に入室、貞暁僧都の受法の弟子」と記されているためかと・・・

 貞暁というと公暁の叔父(頼家の異母弟)とも思えるが・・・

 ただ、この記事の「貞暁」は鶴岡八幡宮の「定暁」のことと考えられる。

 もう一つ、尊暁の弟子となった時に「頼暁」(らいぎょう)を名乗ったとする説がある。

 「頼」は父頼家から「暁」は尊暁からとったものらしい。

 参考までに、公胤は千葉常胤の子・東胤頼の子で、叔父の日胤が師なのだという。



リンクボタン鎌倉に下向した園城寺の公胤と源実朝

リンクボタン源氏ゆかりの園城寺(三井寺)と源実朝









〜源実朝暗殺〜

 1217年(建保5年)5月11日、鶴岡八幡宮の定暁が入寂したため、6月20日、政子の命で鎌倉に戻った公暁。

 政子から鶴岡八幡宮の別当に補任され、この年の10月11日、別当となってはじめて神拝し、その晩より宿願によって、上宮で一千日間の参籠をはじめた。

 『吾妻鏡』1218年(建保6年)12月5日条には、

 「公暁は参籠したまま上宮を退出せず、いくつかの祈請をたてて髪も剃らないので、皆がおかしいと怪しんだ」

 と記されている。

 そして、1219年(建保7年)の正月を迎える。


鶴岡八幡宮
リンクボタン鶴岡八幡宮


 1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮では、源実朝の右大臣拝賀式が行われた。

 式を終えた実朝が石段の上にさしかかると、突然公暁が襲いかかり、実朝を殺害(参考:源実朝の暗殺)。

 実朝の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も実朝の首を放さなかったという。

 そして、公暁の乳母子弥源太を三浦義村邸に遣わし、

 「今、将軍の席が空いた。

 次は自分が将軍となる順番だから、 早く方策を考えよ」

 と指示。

 しかし、義村は「すぐに屋敷に来る」よう伝える一方で、北条義時と連絡をとり、義時から公暁を討つように命じられている。

 そうとも知らずに山越えをして義村邸に向かった公暁は、義村に遣わされた長尾定景に討ち取られ、首は義村によって義時邸に運ばれて実検が行なわれた。

 ただ、義時の子泰時は「公暁の顔を見たことがないので、疑いがある」と語っていたのだという。

 公暁がどこに葬られたのかは不明。





源実朝五輪塔
リンクボタン源実朝五輪塔
(壽福寺)
源実朝公御首塚
リンクボタン源実朝公御首塚
(秦野市)


 公暁に暗殺された源実朝の遺体は勝長寿院に葬られた。

 ただ、首は公暁が持ち去って行方がわからなかったため、代わりに髪の毛が葬られたのだという。

 秦野市の実朝の首塚は、三浦義村の家臣・武常晴が持ち去った首が埋葬された地と伝えられている。





沼津・大泉寺
リンクボタン大泉寺
(沼津市)


 大泉寺は、源頼家への謀反で誅殺された阿野全成の館跡に建てられた寺。

 全成の嫡男・時元は、この地で隠棲していたが、実朝が暗殺されると反北条の兵を挙げて敗れたのだという。

 大泉寺には、全成・時元の親子と公暁の位牌が伝えられている。





〜公暁の弟禅暁〜

 公暁の弟禅暁は、父の頼家が暗殺された後、仁和寺に預けられていたが、1220年(承久2年)4月14日、公暁に加担したとして誅殺されている。

 三浦義村の弟胤義は、禅暁を将軍に据えようと考えていたのだという・・・

 胤義は翌年に起こる承久の乱で朝廷軍に与するが、『承久記』によると禅暁が殺されたことが理由なのだという。

 リンクボタン三浦義村の弟・胤義



鶴岡八幡宮の別当


源実朝の暗殺


リンクボタン頼朝の子・孫:断絶した血筋

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リンクボタン源頼家の嫡子一幡と嫡子のはずだった公暁

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