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建長寺塔頭回春院から奥の天園ハイキングコースへと続く道を入っていくと、「公暁悲劇の道」と呼ばれる古道がある。 この道の先は鶴岡八幡宮の裏山(今は、途中で道がなくなってしまっている。)。 1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮で叔父で三代将軍の源実朝を暗殺した公暁(くぎょう・こうきょう)。 その後、三浦義村邸へと向かうため、公暁が使ったのがこの道なのだとか・・・ |
※ | 「公暁」の読み方については「くぎょう」とされてきたが、近年では「こうきょう」もしくは「こうぎょう」と読むのが正しいとされているらしい。 |
公暁は、1200年(正治2年)、二代将軍源頼家の次男として誕生。 母は辻殿(賀茂重長の娘:源為朝の孫)。 幼名は善哉(ぜんざい)。 乳母夫は三浦義村。 1203年(建仁3年)9月、父頼家は将軍職を廃され、伊豆修禅寺に幽閉された後、翌年、北条氏によって暗殺されている(比企氏の乱)。 |
![]() (妙本寺) |
![]() (伊豆修禅寺) |
その後の善哉は・・・ 『吾妻鏡』によれば、 1206年(建永元年)6月16日、北条政子邸では、善哉の「着袴の儀」が行われ、三代将軍源実朝(善哉の叔父)も参列している。 同年10月20日には、政子の命令で実朝の猶子となり、はじめて御所に入った。 このとき、乳母夫の三浦義村は贈り物を献上。 1211年(建暦元年)9月15日、鶴岡八幡宮別当の定暁(尊暁)の弟子となる。 法名は公暁。 翌日には定暁に伴われ、受戒のため上洛。 修行のために入った園城寺では、公胤僧正の弟子となり、「悪別当」と呼ばれていた。 |
1217年(建保5年)6月20日、定暁が入寂したため、政子の命令で鎌倉に戻った公暁は、政子から鶴岡八幡宮の別当に補任され、この年の10月11日、別当となってはじめて神拝し、その晩より宿願によって、上宮で一千日間の参籠をはじめた。 『吾妻鏡』1218年(建保6年)12月5日条には、 「公暁は参籠したまま上宮を退出せず、いくつかの祈請をたてて髪も剃らないので、皆がおかしいと怪しんだ」 と記されている。 そして、1219年(建保7年)の正月を迎える。 |
1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮では、源実朝の右大臣拝賀式が行われた。 式を終えた実朝が石段の上にさしかかると、突然公暁が襲いかかり、実朝を殺害(参考:源実朝の暗殺)。 実朝の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も実朝の首を放さなかったという。 そして、公暁の乳母子弥源太を三浦義村邸に遣わし、 「今、将軍の席が空いた。 次は自分が将軍となる順番だから、 早く方策を考えよ」 と指示。 しかし、義村は「すぐに屋敷に来る」よう伝える一方で、北条義時と連絡をとり、義時から公暁を討つように命じられている。 そうとも知らずに山越えをして義村邸に向かった公暁は、義村に遣わされた長尾定景に討ち取られ、首は北条義時邸に運ばれた。 公暁がどこに葬られたのかは不明。 |
![]() (壽福寺) |
![]() ![]() (秦野市) |
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7年に一度の御開帳![]() |
60年に一度の祭礼![]() |
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