鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉殿の13人 北条義時
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編

紅葉



源実朝

編集:yoritomo-japan.com








源実朝像
源実朝
(京都:大通寺蔵)


 源実朝(みなもとのさねとも)は、源頼朝北条政子の次男。

 1192年(建久3年)8月9日に誕生(実朝の誕生)。

 1203年(建仁3年)、兄頼家の失脚後、12歳で三代将軍となった(参考:比企氏の乱)。

 「実権は二代執権北条義時と母である北条政子に握られ、蹴鞠や和歌にふけるようになる」という批判的な評価がされがちだが、将軍親裁を推進し、大江広元北条義時らの幕府首脳部に劣らない政治手腕を発揮。

 後鳥羽上皇とも良好な関係を築き上げたが・・・


 1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際に、甥の公暁(兄頼家の子)に暗殺されてしまう(源実朝の暗殺(源氏の滅亡) )。





〜実朝の官位昇進〜

 実朝は、官位の昇進を強く望んでいた。

 『吾妻鏡』によると、その理由は「源氏の正統は実朝で絶えることになるので、せめて高官に昇り、家名をあげたい」というもの。

 それには「将軍後継に後鳥羽上皇の皇子」という考えがあったという説がある。

 次々に昇進を続けた実朝は、最終的に右大臣となった。

 後鳥羽上皇の官打(かんうち)ともいわれるが、武家政権との融和を図っていたと考える方が妥当なのかもしれない。


 リンクボタン昇進を重ねた源実朝


「官打」とは、身分不相応な位に昇らせ不幸にしようという考えのこと。









〜主な出来事〜


1203年(建仁3年)6月23日

 乳母夫の阿野全成が謀反を企てたとして誅殺される。

 全成は源頼朝の異母弟で、妻は北条政子の妹阿波局


阿野全成の誅殺



1203年(建仁3年)9月7日

 9月2日、北条時政比企能員を暗殺、9月7日、兄頼家が出家、同日、征夷大将軍に就任。


比企氏の乱


リンクボタン兄源頼家の失脚で将軍となった源実朝

リンクボタン慈円の愚管抄が伝える比企能員の変



1203年(建仁3年)10月8日

 元服。

 実朝の名は、後鳥羽上皇から賜った。



1204年(元久元年)7月18日

 兄頼家が幽閉先の修禅寺で暗殺される。


源頼家墓
リンクボタン源頼家の墓
(修禅寺)



1204年(元久元年)12月10日

 坊門信清の息女(坊門姫(西八条禅院))を妻として迎える。

 坊門姫は後鳥羽上皇の従兄妹。 



1205年(元久2年)4月12日

 十二首の和歌を作る。



1205年(元久2年)6月22日

 畠山重忠北条時政の謀略によって討たれた。

 それから間もない閏7月、時政とその妻牧の方が実朝を亡きものとして平賀朝雅を将軍に据えようという企てが発覚し、時政と牧の方は伊豆へ追放され、平賀朝雅は誅殺された。


畠山重忠の乱

牧氏の変〜牧の方の陰謀〜



1205年(元久2年)8月

 北条時政牧の方の娘を妻としていた宇都宮頼綱が謀反の疑いをかけられ出家。



1205年(元久2年)9月2日

 藤原定家の門弟・内藤朝親(知親)が筆写した『新古今和歌集』が献上される。

 『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の命によって編纂され、父頼朝の歌が二首が入集しているものだが、この時はまだ発表はされていない段階。



1206年(建永元年)10月20日

 北条政子の計らいで兄頼家の子善哉(のちの公暁)を猶子とする。



1206年(建永元年)11月18日

 北条義時の別荘で北条泰時・東重胤・内藤朝親らと和歌の会。 



1206年(建永元年)11月18日

 帰参が遅れた東重胤を蟄居させる。


リンクボタン源実朝の勘気を蒙った東重胤と北条義時の助言



1206年(建永元年)

 鶴岡八幡宮の良信が江島神社辺津宮を建立。


江の島
リンクボタン江の島
江の島辺津宮
リンクボタン辺津宮


リンクボタン源実朝が請来した仏舎利の伝説



1207年(建永2年)12月2日

 この年の鶴岡八幡宮放生会での任務懈怠のため出仕を止められていた吾妻助光が、アオサギを射落とす妙技を見せて許される。


リンクボタン源実朝とアオサギを射落とした吾妻助光と北条義時 



1208年(承元2年)2月

 疱瘡を患う。

 これ以後、鶴岡八幡宮への参詣を止める。



1208年(承元2年)5月29日

 正室坊門姫に仕える藤原清綱から先祖の藤原基俊が書き写したという『古今和歌集』を献上される。

 このとき清綱は、後鳥羽上皇新日吉社で催した流鏑馬についても語っている。



1208年(承元2年)12月15日

 鶴岡八幡宮の神宮寺の本尊薬師如来の開眼供養。

 導師は、鶴岡八幡宮の供僧で日光山の座主真智坊法橋隆宣。



1209年(承元3年)

 政所の設置。

 政所は従三位以上の公卿に許された家政機関(実朝は4月10日に従三位に叙せられている。)。



1209年(承元3年)

 3月14日、武蔵国田文作成・国務条々制定

 8月9日、神社佛寺領の興行令

 10月13日、諸国御牧興行令 



1209年(承元3年)5月12日

 和田義盛が上総国司の挙任を実朝に申請。


リンクボタン上総介の任官を望んでいた和田義盛



1209年(承元3年)5月20日

 梶原家茂が土屋宗遠に殺害される。


リンクボタン梶原家茂を殺害した土屋宗遠を赦免した源実朝



1209年(承元3年)7月5日

 夢のお告げにより、和歌二十首を住吉大社に奉納し、藤原定家に三十首の和歌の添削を依頼。

 使いは内藤朝親(知親)。


住吉大社
リンクボタン住吉大社



1209年(承元3年)9月29日

 園城寺の公胤が下向。


リンクボタン鎌倉に下向した園城寺の公胤と源実朝



1209年(承元3年)11月14日

 北条義時の郎従を御家人に準ずる扱いとすることを拒否。



1210年(承元4年)正月1日

 源頼朝が定めた鶴岡八幡宮元旦初詣を復活させる。

 ただし、北条義時が代参。



1210年(承元4年)5月6日

 大江広元の屋敷で北条義時北条時房らが参加した和歌が催され、広元から『古今和歌集』、『後選和歌集』、『拾遺和歌集』が贈られる。



1210年(承元4年)7月8日

 兄頼家の正室・辻殿(善哉の母)が壽福寺退耕行勇を戒師として出家。



1211年(承元5年)閏正月9日

 北野天満宮の梅の種から育てた永福寺の梅の木を御所に移植。



1211年(承元5年)2月22日

 1208年(承元2年)に疱瘡を患って以来止めていた鶴岡八幡宮を参拝。



1211年(建暦元年)

 6月26日、東海道新宿建立令

 7月4日、貞観政要の講読を始める。

 12月27日、駿河・武蔵・越後等大田文作成



1211年(建暦元年)7月8日

 正室の坊門姫北条政子日向薬師を参詣。


日向薬師
リンクボタン日向薬師
(伊勢原市)



1211年(建暦元年)7月

 「時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」

 この歌は大山阿夫利神社に祈念したときの歌なのだという。

 大山寺倶利伽羅堂がその時の堂なのだとか・・・


大山阿夫利神社
リンクボタン阿夫利神社
大山寺倶利伽羅堂
リンクボタン倶利伽羅堂
(大山寺)



1211年(建暦元年)9月15日

 兄頼家の子善哉が鶴岡八幡宮の定暁のもとで出家、公暁と名乗り、翌日には上洛して園城寺に入室。


園城寺
リンクボタン園城寺
(大津市)



1211年(建暦元年)10月

 鎌倉に下向した鴨長明と面会。

 長明は、京都下鴨神社の摂社河合神社の禰宜職の争いに敗れて隠棲し、『方丈記』や『無名抄』を著した。

 源頼朝法華堂では「草も木もなびきし秋の霜消えて空しき苔をはらう山風」と詠んでいる。


 リンクボタン源実朝と鴨長明


河合神社・方丈
リンクボタン鴨長明の方丈
(京都:河合神社)



1211年(建暦元年)11月

 北条政子鶴岡八幡宮の神宮寺に薬師三尊を安置。

 壽福寺薬師如来坐像がその中尊と考えられ、実朝の病気平癒祈願に造立されたものと考えられている。


銅造阿弥陀如来坐像
リンクボタン銅造薬師如来坐像



1212年(建暦2年)

 2月19日、京都大番役推進令

 2月28日、相模川橋修理令

 8月19日、鷹狩禁断令



1212年(建暦2年)3月9日

 北条政子と正室の坊門姫を連れて三崎の御所へ出かけ、船中で鶴岡八幡宮の稚児たちの舞楽舞を楽しむ。


本瑞寺
リンクボタン三崎の御所跡
(三浦市)



1212年(建暦2年)6月20日

 壽福寺栄西を訪れ、仏舎利三粒を譲り受ける。

 のちに実朝は宋から仏舎利を請来。

 円覚寺舎利殿に納められているものがそれなのだという。 


円覚寺舎利殿
リンクボタン舎利殿
(円覚寺)







1213年(建暦3年)2月27日

 閑院造営に協力した賞として正二位に叙される。

 北条義時も正五位、相模守に。



1213年(建暦3年)2月

 泉親衡による源頼家の遺児千寿丸を擁立しようとする企てが発覚し、和田義盛の子の義直、義重、甥の胤長らが捕らえられる。

 そのうちの渋川兼守は、荏柄天神社に和歌を奉納したことで許されている。


歌ノ橋
リンクボタン歌ノ橋
(渋川兼守が架けた橋)



1213年(建暦3年)5月2日

 和田義盛北条義時打倒の挙兵(和田合戦)。

 この合戦により和田氏が滅んだ。


和田合戦



1213年(建暦3年)5月4日

 和田合戦の先陣について三浦義村と波多野忠綱が論争。


リンクボタン和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村



1213年(建暦3年)5月10日

 日光山の弁覚に和田合戦の褒賞を与える。


=日光山=
輪王寺
リンクボタン日光山輪王寺
日光二荒山神社
リンクボタン日光二荒山神社


リンクボタン和田合戦で活躍した日光山の弁覚〜源実朝の護持僧〜



1213年(建暦3年)5月21日

 近年にはない大地震が発生。

 家屋が倒壊し、山が崩れ、地が裂けたのだという。



1213年(建暦3年)

 「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」

 この歌は5月に起こった大地震の直後に詠まれたものと考えられている。


源実朝歌碑
リンクボタン実朝歌碑
(鶴岡八幡宮)



1213年(建暦3年)9月

 北条時政の謀略により討死した畠山重忠の末子重慶が日光山(輪王寺二荒山神社)で長沼宗政に誅殺される。

 重慶は畠山重忠の乱後、武蔵国の慈光寺の別当を勤めていたのだという。 


慈光寺観音堂
リンクボタン慈光寺
(ときがわ町)


リンクボタン謀反を企てて誅殺された畠山重忠の子・重慶



1213年(建保元年)11月23日

 藤原定家から『万葉集』の一部を贈られる。

 家集『金槐和歌集』が編纂されたのがこの頃といわれている。


金槐和歌集
リンクボタン金槐和歌集



1214年(建保2年)正月28日

 二所詣へ出発。

 正月29日に箱根権現三嶋社、2月1日に伊豆山権現を参拝。


源頼朝の伊豆・箱根の二所詣



1214年(建保2年)2月4日

 壽福寺栄西が、実朝に『喫茶養生記』を献上した。


喫茶養生記
リンクボタン喫茶養生記
栄西
リンクボタン栄西禅師坐像



1214年(建保2年)5月7日

 4月に比叡山衆徒によって焼かれた園城寺の復興を決定。


リンクボタン源氏ゆかりの園城寺(三井寺)と源実朝



1214年(建保2年)7月7日

 実朝創建の大慈寺の法要。

 大慈寺は、後鳥羽上皇への恩と父源頼朝の徳をたたえるために建設を開始した寺院。


 リンクボタン大慈寺建立縁起と頼朝の死因


大慈寺跡
リンクボタン大慈寺跡



1215年(建保3年)7月6日

 伊豆国で北条時政が死去。


北条時政墓
リンクボタン北条時政墓
(伊豆の国市・願成就院)



1215年(建保3年)7月6日

 坊門信清(正室の坊門姫の父)から6月2日に行われた「仙洞の哥合せ(衆議の判)一巻」が贈られる。

 これは後鳥羽上皇の指示によるもの。



1216年(建保4年)1月15日

 江の島が陸続きに。


江の島トンボロ
リンクボタン江の島トンボロ



1216年(建保4年)2月19日

 東寺宝蔵に納められていた仏舎利が盗まれ、盗人を捜索を命ずる宣旨が届く。


東寺宝蔵
リンクボタン東寺宝蔵
(京都)



1216年(建保4年)6月8日

 東大寺大仏鋳造と大仏殿の建設に尽力した宋の工人陳和卿と対面。



1216年(建保4年)閏6月20日

 園城寺の公胤が入滅。



1216年(建保4年)9月20日

 北条義時の使いとして御所を訪れた大江広元に昇進について諫められる。


 リンクボタン昇進を重ねた源実朝



1216年(建保4年)11月24日

 宋へ渡航するため、陳和卿に唐船の建造を命ずる。

 翌年完成したが進水はできなかった。


リンクボタン宋に憧れた将軍〜源実朝の渡宋計画〜

リンクボタン源実朝が請来した仏舎利の伝説



1217年(建保5年)3月10日

 正室の坊門姫と同じ牛車に乗って永福寺の花見に出かける。


永福寺三堂基壇
リンクボタン永福寺跡
(鎌倉)



1217年(建保5年)5月11日

 鶴岡八幡宮の別当・定暁が入滅。



1217年(建保5年)5月12日

 訴訟に口出しをする壽福寺退耕行勇を諫める。



1217年(建保5年)6月20日

 園城寺で修行していた公暁が鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮の別当に補任される。



1217年(建保5年)10月11日

 公暁鶴岡八幡宮上宮で一千日間の参籠をはじめる。



1218年(建保6年)2月〜4月

 次期将軍に後鳥羽上皇の皇子を迎えるため北条政子が上洛し藤原兼子と会談。


リンクボタン北条政子の上洛と将軍継嗣問題



1219年(建保7年)1月27日

 鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式で甥の公暁に暗殺される(享年28)。

 遺体は勝長寿院に葬られたが、首は公暁が持ち去って行方がわからなかったため、首の代わりに髪の毛が葬られたのだという。

 翌日、正室の坊門姫壽福寺で出家。


源実朝の暗殺

 実朝が暗殺された日は雪でした。
源実朝が暗殺された日








源実朝五輪塔
リンクボタン壽福寺五輪塔

 壽福寺裏山の「やぐら」内にある五輪塔は、実朝ものと伝えられている。





源実朝公御首塚
リンクボタン源実朝公御首塚
(秦野市)

 公暁が持ち去った実朝の首は、三浦義村の家臣・武常晴が拾い上げ、波多野の地に葬ったのだと伝えれている。

 リンクボタン源実朝の首と七騎谷の伝説


源実朝像
リンクボタン源実朝像
(秦野市:金剛寺)

 金剛寺は、実朝の御首(みしるし)を埋葬したことに始まる。


金剛寺の五輪塔
リンクボタン実朝の木製五輪塔
(鎌倉国宝館)

 波多野で営まれた実朝の供養には、退耕行勇が招かれ、木製五輪塔が建てられたのだという(鎌倉国宝館に寄託)。





京都大通寺
リンクボタン大通寺
(京都)

 大通寺は、1222年(貞応元年)、実朝の菩提を弔うために正室の本覚尼(坊門姫・西八条禅尼)が創建した寺。

 坊門姫は、実朝が暗殺されると、鎌倉の壽福寺で出家して京に戻ったのだという。





〜高野山の金剛三昧院〜

金剛三昧院
リンクボタン金剛三昧院
(高野山)

 高野山の金剛三昧院は、北条政子の発願で頼朝と実朝の供養のために建てられた寺院。





源氏三代の墓
リンクボタン源氏三代の五輪塔
(高野山)

 高野山の西室院にある源氏三代五輪塔は、実朝の異母兄貞暁頼朝頼家・実朝の菩提を弔うために建てたものと伝えられている。





四本龍寺三重塔
リンクボタン四本龍寺三重塔
(日光山)

 四本龍寺(輪王寺)の三重塔は、実朝の菩提のために日光山二十四世の弁覚が創建したのだという。



リンクボタン乳母制度が生んだ権力闘争〜頼朝・頼家・実朝の乳母〜

リンクボタン頼朝の子・孫:断絶した血筋

リンクボタン失敗だった?頼朝の鎌倉殿継承構想








〜甲斐善光寺の源実朝像〜

甲斐善光寺源実朝像
リンクボタン源実朝像

 甲斐善光寺「木造源実朝坐像」は、信濃善光寺にあったもので、実朝像としては国内最古の彫像。


「木造源頼朝坐像」も国内最古の彫像
源頼朝像と善光寺





〜実朝伝説〜

大銀杏
リンクボタン大銀杏
(鶴岡八幡宮)
鶴岡八幡宮のビャクシン
リンクボタンビャクシン
(鶴岡八幡宮)


円覚寺舎利殿
リンクボタン舎利殿
(円覚寺)
江島霊迹建寺の碑
リンクボタン江島霊迹建寺の碑
(江の島)


伊豆山神社
リンクボタン伊豆山神社
(熱海)


走り湯
リンクボタン走り湯
(熱海)
熱海:湯前神社
リンクボタン湯前神社
(熱海)


二所詣:伊豆山神社・箱根神社・三嶋大社





〜実朝を祀る社〜

白旗神社
リンクボタン白旗神社
(鶴岡八幡宮)


鶴岡八幡宮:実朝祭
リンクボタン実朝祭
(8月9日)
文墨祭:白旗神社
リンクボタン文墨祭
(10月28日)





献詠披講式
リンクボタン献詠披講式
(鶴岡八幡宮)

 毎年3月に鶴岡八幡宮で行なわれる献詠披講式では、実朝の一首と公募による歌が披講される。




2022年のNHK大河ドラマは・・・
北条義時!

鎌倉殿の13人

二代執権北条義時

宿老13人の合議制








伊豆・箱根
リンクボタン伊豆・箱根の旅
(源頼朝・北条氏ゆかりの地)

伊豆韮山
リンクボタン源頼朝の配流地
(伊豆韮山)


歴史めぐり源頼朝


鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)


紅葉