鎌倉手帳(寺社散策)

源実朝

編集:yoritomo-japan.com







源実朝像
源実朝
(京都:大通寺蔵)


 源実朝(さねとも)は、源頼朝北条政子の次男。

 1192年(建久3年)8月9日に誕生(参考:北条政子の安産祈願所)。

 兄頼家の失脚後、三代将軍となった(参考:比企氏の乱)。

 しかし、実権は二代執権北条義時と母である北条政子に握られ、実朝は蹴鞠や和歌にふけるようになる。

 1219年(建保7年)、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際に、甥の公暁(兄頼家の子)に暗殺された。

 これによって、源氏の政権は、三代で幕を閉じた。

 (参考:源実朝の暗殺(源氏の滅亡) 実朝の暗殺 )。


大慈寺跡
リンクボタン大慈寺跡
(実朝創建)
京都大通寺
リンクボタン京都:大通寺
(実朝の菩提所)

源実朝五輪塔
リンクボタン壽福寺五輪塔
源実朝公御首塚
リンクボタン源実朝公御首塚
(秦野市)

隠れ銀杏 静の舞と隠れ銀杏

白旗神社 柏槇の古木

実朝歌碑 歌ノ橋

金槐和歌集 伊豆山神社


金槐和歌集
リンクボタン金槐和歌集





〜実朝の官位昇進〜

 実朝は、官位の昇進を強く望んでいた。

 その理由として「源氏の正統は実朝で絶えることになるので、せめて高官に昇り、家名をあげたい」というものであったといわれている。

 『吾妻鏡』によれば、1216年(建保4年)、大江広元より官位の昇進を急ぐことについて諫められている。

 しかし、実朝は次々に昇進を続け右大臣となった。これは、後鳥羽上皇の官打(かんうち)ともいわれているが、後鳥羽上皇は武家政権との融和を図っていたという説もある。

 ※「官打」とは、身分不相応な位に昇らせ不幸にしようという考えのこと。 



〜主な出来事〜

1204年(元久元年)

 坊門信清の息女を妻として迎える。


1205年(元久2年)

 畠山重忠北条時政の謀略によって討たれた。

 それから間もなく、時政とその妻牧の方が実朝を亡きものとして、平賀朝雅を将軍に据えようと企てたが、伊豆に追放されている。

 (参考:畠山重忠の乱 畠山重忠殺害と北条氏の世代交替


1213年(建暦3年)

 泉親衡の謀叛の企てが露見。

 和田義盛の子らが加担していたことが原因となり、北条義時と和田義盛が対立して合戦となる。

 この合戦により和田氏が滅んだ。

 (参考:和田合戦 北条義時の独裁と和田義盛)。


1213年(建保元年)ころ

 実朝の家集『金槐和歌集』が編纂されたのがこの頃といわれている。


1214年(建保2年)

 壽福寺栄西が、実朝に『喫茶養生記』を献上した。


1216年(建保4年)

 宋へ渡航するため、陳和卿に唐船の建造を命ずる。翌年完成したが進水できなかった。

 (参考:宋に憧れた源実朝(okadoのブログ)


1219年(建保7年)

 鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式で甥の公暁に暗殺される。

 遺体は勝長寿院に葬られた。


源実朝の暗殺

 実朝が暗殺された日は雪でした。
源実朝が暗殺された日







「源氏」「鎌倉」「頼朝」トップ



伊豆・箱根
リンクボタン伊豆・箱根の旅
(源頼朝・北条氏ゆかりの地)

伊豆韮山
リンクボタン源頼朝の配流地
(伊豆韮山)


歴史めぐり源頼朝


鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)