鎌倉手帳(寺社散策)

源氏ボタルよりともくん『鎌倉殿の13人』2022年大河ドラマ  戌神将二代執権 北条義時

歴史めぐり源頼朝
〜断絶した頼朝の血筋〜







リンクボタン長女大姫

 1197年(建久8年)7月14日死去(20歳前後)


リンクボタン次女三幡(乙姫)

 1199年(正治元年)6月30日死去(享年14)


岩船地蔵堂
リンクボタン岩船地蔵堂
(鎌倉:扇ヶ谷)

 二人の娘の母は北条政子

 岩船地蔵堂の石造地蔵尊は、大姫の守本尊と伝えられているが、石造地蔵尊の前に置かれている木造地蔵尊の胎内銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれているのみだったのだという。

 三幡の亡骸は中原親能の亀谷堂に埋葬されたということで、三幡の墳墓堂ではないかという説もある。


長男千鶴丸

 千鶴丸の母は、伊東祐親の娘八重姫。
 祐親に殺されたと伝えられているが詳細は不明。
 (参考)
 リンクボタン伊東祐親の娘八重姫との恋 


リンクボタン次男頼家

 1204年(元久元年)7月18日暗殺(享年23)

源頼家墓
リンクボタン源頼家の墓
(修禅寺)

 頼家の母は北条政子

 頼朝亡き後、二代将軍となった頼家は、1203年(建仁3年)に起こった比企氏の乱(比企能員の変)で出家させられ、伊豆修禅寺に幽閉されたのち、翌年、北条氏によって暗殺された。

比企氏の乱


リンクボタン二男貞暁

 1231(寛喜3年)、高野山で死去(46歳)

仁和寺(京都市)
リンクボタン仁和寺
(京都市右京区)

 貞暁の母は、伊達朝宗の娘大進局。

 1192年(建久3年)5月19日、頼朝は貞暁を仁和寺の法眼隆暁に弟子入りさせている。


リンクボタン三男実朝

 1219(承久元年)1月27日暗殺 (享年23)

源実朝公御首塚
リンクボタン源実朝公御首塚
(秦野市)

 実朝の母は北条政子

 頼家の跡を継ぎ三代将軍となったが、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀式の後、甥の公暁に殺害された。

源実朝の暗殺

 実朝が暗殺された日は雪でした。
源実朝が暗殺された日


孫:一幡(頼家嫡男)

 1203年(建仁3年)9月2日討死(6歳)

一幡の袖塚
リンクボタン一幡袖塚
(妙本寺)

 一幡の母は、比企能員の娘若狭局。

 1203年(建仁3年)に起こった比企氏の乱(比企能員の変)で、北条義時らに攻められ焼死したと伝えられている。
 妙本寺は比企邸があった地に建てられた寺院。


孫:公暁(頼家二男)

 1219年(承久元年)1月27日討死(享年20)

公暁悲劇の道
リンクボタン公暁悲劇の道

 公暁の母は、三浦義澄の娘など諸説ある。

 公暁は、1219年(承久元年)1月27日に実朝を暗殺した後、三浦義村が差し向けた長尾定景に討ち取られた。


孫:栄実(頼家三男)

 1215年(建保2年)12月13日自殺

最明寺
リンクボタン最明寺

 栄実の母は、頼朝の祐筆だった一品房昌寛の娘。

 1213年(建暦3年)2月、栄実は泉親衡の謀叛の企てに利用され出家。

 1214年(建保2年)には、和田の残党に再び擁立され、六波羅を襲撃しようと企てたが、計画が露見し、自刃したのだと伝えられている。

 ただ、川越の最明寺には五代執権北条時頼の時代まで生き延びた栄実の伝説が残されている。


孫:禅暁(頼家四男)

 1220年(承久2年)4月14日誅殺。

 禅暁の母は、一品房昌寛の娘または足助重長(加茂重長)の娘とされる。

 父頼家が暗殺された後、仁和寺に入ったが、実朝が暗殺されると公暁に加担したとの嫌疑がかけられ、実朝暗殺から1年以上の空白期間を経て誅殺されたのだと伝えられる。


孫:竹御所(鞠子)

 1234年(天福2年)7月27日死去(32歳)

妙本寺新釈迦堂跡
リンクボタン新釈迦堂跡
(妙本寺:竹御所墓)

 竹御所の母は、比企能員の娘若狭局。

 四代将軍藤原(九条)頼経と結婚し、頼朝の血筋を引く子の誕生が期待されたが、死産となり自らも命を落とした。
 竹御所の死により頼朝の血筋は絶えた。


リンクボタン源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡

リンクボタン乳母制度が生んだ権力闘争〜頼朝・頼家・実朝の乳母〜



源頼朝







編集:yoritomo-japan.com


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